「なんだァ、オッサン」
窓として開けられた壁の穴を背後にして、いつのまにか男が立っていた。
階段から上がって来たのではなく、忽然と現れた男の姿。奇妙な威圧感が男にはあった。
男はすらりとした長身で、春だというのに黒いコートを纏っていた。コートの右袖が、吹き込む風に揺れる。男は右腕がないのだ。黒く艶やかな長髪が流れおち、随分と色の白い肌を際だたせていた。
整った顔立ちを彩る目は片方がつぶれている。しかし、見つめる瞳には力があった。
赤い瞳が少年たちを射る。
「相変わらず、人間とは下衆なものだな」
見下したような男の物言いと、蔑むような視線。それは少年たちが先程まで
少年たちは見下すことに慣れていても、見下されることには慣れていなかった。
そんな相手に出会ったとき、この少年たちがとる行動は二つだ。相手を自分より強いと見て媚びへつらうか、逆に相手を弱いと見て力で捩じ伏せようとするか。
「ざけんなよ、オッサン」
少年たちは後者を選んだ。
人数はこっちが上だ。さらに相手は片目と片腕がない。それが少年たちに勝利を確信させた。男の持つ異様な雰囲気よりも、目に見えるものだけを信じたのだ。
なによりさっきまで慎二をいたぶっていた余韻が残っている。少年たちは暴力に酔っていた。
金髪を先頭に、四人が男を取り囲む。
「偉そうに口出してんじゃねェよ」
金髪が、男のコートをつかんだ。
「怪我したくなかったら、迷惑料おいてどっか行きな」
「下衆すぎる」
「なんだと!?」
「お前らは食事するに値せんほど下衆だ」
そう言って、男は無造作に左手を振った。
刹那、何か重いものがが転がるような音が聞こえた。そして金髪の頭のあった位置に赤い噴水が生まれた。頭を失った金髪の体が、膝から崩れ落ちる。
「?」
少年たちが絶句する。さほど力を込めたように見えなかった男のひと振りで、仲間の頭が吹き飛んだのだ。
だが、暴力に酔った少年たちが恐怖におびえることはなかった。むしろ血を見たことで、かれらの興奮は加速された。
「野郎!」
まず、赤髪が動いた。男は殴りかかってきた赤髪の拳をあっさりと掴む。そしてひと思いに握りつぶした。
「がぁ!」
次に来たのは茶髪だった。男は苦痛にうめく赤髪の腕をとり、茶髪に向けて振り回す。赤髪の体がおもちゃの人形のように宙に浮いた。
茶髪は驚異的な速度で自分に向かって来る赤髪を避けられずに、速度に見合った衝撃を受け吹っ飛んだ。
長髪はポケットからバタフライナイフを取り出すと、得意のナイフ裁きで刃を出した。何度も何度も練習したナイフ裁き。今はヤクザになった先輩がやっていたのを見て、憧れて練習したのだ。
そして男の脇腹めがけて突き出す。ナイフは刃の半ばほどまで埋まって止まった。
「へっ。莫迦が」
長髪は得意げな表情で男を見た。少年はナイフをいつも持ち歩いていたが、今まで人を刺したことはなかった。仲間には刺したことがあると嘘ぶいていたが、それはたんなる見栄でしかなかった。もし本当に刺したことがあるのならば、刺した感触がおかしなことに気づいたはずだった。
男は何事もなかったかのように長髪の少年を見た。無表情に。冷たく。
少年は慌ててナイフを抜こうとする。だが、ナイフはびくともしなかった。このとき初めて、少年は目の前の男に恐怖を感じた。退化した生存本能が逃げろと命じる。だがもう遅い。
「!」
男の手が少年の腹部へと入り込んだ。文字通り、皮膚を突き破って内臓へと。
少年は自らの腹の中へと伸びる腕を見つめ、男の冷めた顔を見つめ、泣き笑いの表情を浮かべた。
男が腕を引き抜く。少年はよろよろと後退り、床に倒れ、絶命した。
四人いた少年たちは、誰一人として生きてはていなかった。
慎二はその一部始終を、まるで夢でも見ているような感覚で眺めていた。
彼の生きている日常では決して見られない風景。たとえそれが現実であったとしても、人は理解の外にあるものを認識できない。
男が慎二の近くに立った。
「お前は素晴らしい憎悪を持っている」
先程とはうって変わった優しい声音。慎二を見る赤い瞳は、面白がっているようだった。
突然、慎二の体が浮いた。見えない人間に支えられるように慎二は空中に立たされる。
男の左手が伸びて、慎二の顔を正面から掴んだ。血が慎二の肌を染めた。
慎二はなんの反応も示さずに、虚ろな目を男に向けている。
「お前の憎悪を見せてみろ」
「ぅぅあああ……」
慎二はうめいた。意識が遠のいていく。いくつもの情景がフラッシュバックして、慎二の自我を揺さぶった。
浮かぶのは、顔を合わせればいつも喧嘩ばかりしている両親の記憶。母親に八つ当たりされたときの記憶。中学校に入って初めていじめられた時のの記憶。なにひとつ変えることのできなかった高校の記憶。相川に裏切られたと理解したときの記憶。
「いいぞ。もっと見せろ。私を呼び寄せたほどの憎悪を見せろ」
男の赤い瞳が光る。
フラッシュバックのスピードが増した。圧倒的な速さで情景が流れる。
「ああああああああ!!!!!!!」
意識の爆発。ホワイトアウトした意識の中に、ひとつの情景がひろがった。
それは雪葉の姿。友達とふざけ合っている雪葉。笑っている雪葉。困った顔の雪葉。
――上手だね。
それは、初めて雪葉が慎二の絵を見たときの言葉。
――すごい! 全部想像で描いてるんだ。
感心したような顔。自分を認めてくれた雪葉という存在。ただひとりの、存在。憧れた、大切な――
意識に広がるのは、雪葉。
雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉雪葉
(どんなときでも見ていた。芹沢先輩)
だが明るい雪葉のイメージのそばには、必ず影があった。その影を認識した瞬間、慎二の中に再び憎悪の炎が灯った。
影は広がり、その中に潜む者の姿を具現化させる。
雪葉のそばには京也がいた。慎二の中で膨らんだ雪葉の存在に付き添うように。それはまるで、雪葉から慎二を遠ざけようとしいるようだった。
「これだ。この憎悪だ」
男は嬉しそうに言った。口に浮かんだ笑みから、牙が現れた。慎二の顔を傾けて、首を眼前にさらす。そして男は慎二の首筋に牙を立てた。
「っ!」
慎二の体が大きく震えた。背筋に鋭い波が疾る。体の中から何かが引きずりだされるような感覚。心のの奥にあるものが吸いとられるような感覚。その感覚に、慎二震えた。恐怖からではなく陶然として――
男が、慎二の首筋から口を離した。
「甘美な憎悪だ。素晴らしい」
笑みを浮かべた口から覗く牙には、血がついてはいなかった。かわりに虹色にかがやく液体が、ひとしずく零れ落ちた。
「〈
男のそばに、女が現れた。燃えるような赤毛のショートヘアに、枝のように細い体を包む黒のボディスーツと赤いジャケット。
「〈
男――〈赤目〉はごく自然な調子で言った。
「〈
「そうか」
「何者かにつけられているようです」
「……この街の
〈赤目〉の隻眼に、鋭いものが混ざる。
「
「接触を許可する。この街の護法師を誘き寄せる餌にしろ」
「はっ」
「少々痛めつけてもかまわん」
「分かりました」
言葉とともに〈焔華〉の体を炎が包んだ。数瞬の後、炎をと一緒に〈焔華〉の姿も消える。
〈赤目〉は再び慎二を見た。掴んでいた手を離し、いとおしそうに頬を撫でる。
慎二は陶然とした表情のまま、相手のされるがままになっている。
「気に入ったぞ。お前にはその憎悪を力とする
見えない力によって、慎二の胸がはだけられた。上に向けた〈赤目〉の手のひらに、五センチほどの赤い物体が生まれる。赤く透き通った八面体のクリスタル。それは宙を伝って慎二の薄い胸板へと触れた。そのまま滑ってクリスタルは胸骨の終わり――鳩尾の少し上で止まる。
〈赤目〉の細い指がその八面体を押し込む。それはなんの抵抗もなく、慎二の胸に埋まった。
慎二の体が空中でのけ反った。クリスタルが埋まっていく度に、痙攣を繰り返す。
「うぁぁあああああああああ!!」
慎二の絶叫が、建設放棄されたビルの中にこだました。