なぜ自分ばかりがこんな目に合うんだろう。走りながら、
もしかしたら
走りながら一瞬だけ背後を振り返える。赤や金色に、髪を染めた少年たちが追って来ている。その顔には残忍な笑いが張りついていた。少年たちは明らかにこの鬼ごっこを楽しんでいる。
自分は、そんなに脅しやすく見えるのだろうか。慎二はついさっき起こったことを思い出していた。
歩いていると突然因縁をつけられて、恐喝された。そして隙を見て逃げ出した結果がこれだ。
素直に財布の中身を渡しておけばよかったのだろうか。今更ながらに慎二は思う。妙な気など起こさずに、いつものようにおとなしく従っていればよかったのだろうか。みず知らずの人間に脅されて金を払えば……。
いつもの自分なら、多分そうしていただろう。でも、今日はそうしなかった。いつも長いものに巻かれようとする自分に反抗したかったのだ。
息が上がってきた。運動は得意ではなかったが、ごく短い距離なら早く走れるほうだった。だが、ふだん運動していない慎二に持久力はない。走る速度は目に見えて落ちていた。
なのに少年たちが追いついてこないのは、最初に僅かばかり距離を稼げたからに過ぎない。あいつらが諦めない限り、いずれ追いつかれてしまうだろう。
慎二には、自分がどこを逃げてきたのか分からなくなっていた。そしてどこに向かっているのかも。
もう走れない。遠くに逃げることができないのなら、どこかに隠れるしかない。
慎二は、建設途中で放棄されたビルの中へと入って行った。
中は打ちっぱなしのコンクリートになっており、コンクリートを流し込むための型枠なども取り払われていた。内装などはまったくなく薄暗い。夕刻とはいえまだ外は明く、その光が微かに入り込むのみだ。
「こっちに入ったぞ!」
少年たちの声が聞こえた。慎二は慌てて隠れる場所を探す。施工の三分の二を終えたとはいえ、内装ができていない状態では隠れる場所もほぼなかった。相手は複数。手分けして探されればすぐに見つかってしまうだろう。
ふと、慎二の目に階段が飛び込んできた。上へ。慎二はその階段を目指す。
「いたぞ!」
思いのほか近で聞こえた声に、慎二の心臓が跳ねた。
階段を駆け上がりひたすら上を目指す。だが、すでに慎二の体力は限界だった。三階にたどり着いたとき、慎二は一歩も動けなくなっていた。ちょうど階段を登りきった所で膝をつく。
「もう終わりか?」
慎二のすぐ横で、声が聞こえた。さらに階段を上がって来る複数の足音。
「逃げれると思うなよ、この莫迦」
「っ!」
慎二は蹴られた。あっさりと体が倒れる。
「こいつどうするよ?」
倒れた慎二を四人の少年たちが囲んでいた。赤髪に金髪。茶髪に黒の長髪。髪型と色以外はすべて同じに見える少年たち。似たような服を着て、似たような顔をして、慎二を見下ろしている。
苦しそうにして見上げる慎二の目には、目の前の少年たちはすべて同じ人間に写っていた。
「おら、立てよ」
髪の毛を掴まれむりやり起こされる。そして立ち上がったところで、腹に一発、拳が入った。慎二が苦しさのあまりうめき声を出す。
今度は倒れようとしても倒れられなかった。髪を掴まれたままだったからだ。
「……ごめんなさい」
「あん?」
「ごめんなさい」
苦しさのあまり、慎二の口から言葉が出た。
「なに言ってんだよ、コイツ」
少年たちが、顔を見合わせて笑う。
「いまさらあやまっても遅ェんだよ、ばーか」
言葉とともに、顔を殴られた。眼鏡が飛んだ。慎二の視界が途端にぼやける。
「で、どうするよ。コイツ?」
「金とって、剥いて、そこらへんに転がしとくか?」
「ギャハハ。いいねそれ」
また髪を引っ張って倒された。慎二には抵抗できなかった。無様に床にへばりつく慎二を見て、少年たちの顔に嗜虐的な笑みが浮かんだ。
少年の一人が、慎二のポケットを漁り財布を抜き出した。
「おっ、持ってんじゃんか」
財布の中には一万円札が一枚と千円札が三枚入っていた。抜き出した後の財布を、慎二の顔めがけて投げ捨てる。
慎二はそれを黙って見ていた。ぼやけていた視界がわずかにクリアになる。目に涙が溜まったせいだ。目の端から雫がこぼれた。それは痛みよりも悔しさで流れた涙だ。
なぜ自分ばかりがいつもこんな目に合うのだろう。何もしていないのに。悪いことなんてなにひとつしていないのに。いつも誰かにいじめられて、いつもひとりぼっちで……。
(……芹沢先輩)
今何をしているのだろうかと、慎二は思う。
(彼女に会いたい。一目姿を見るだけでもいい。こいつらに絡まれなければ、もしかしたら会えたかもしれなかったのに。でも会えたからどうだというんだ? 彼女の横に自分の居場所なんてないのに)
慎二の心に、暗い炎が宿った。
(自分はこんな目に合っているのに、同じ街のどこかで、芹沢先輩と歩いているやつがいる。きっと楽しそうに笑って……)
いつも雪葉の側にいる京也への憎悪が、膨らみ始める。
憎い(なぜ僕だけ)憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い(なぜあいつだけ)憎い憎い憎い憎い憎い憎い(なぜ僕じゃないんだ)憎い憎い憎い憎い憎い(出会ったのが遅いだけで)憎い憎い憎い憎い憎い憎い(なぜ)憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い(なぜ)憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い(どうして……)憎い憎い憎い憎い憎い憎い(どうして……)憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い(僕じゃないんだ!)
それは、理不尽な憎しみであり怒りだった。だが今の慎二にとっては、京也こそ憎しみの対象でありすべての原因だった。
「なんだ、コイツ泣いてやがるぜ」
「泣こうが喚こうが、何も変わんねェてばよ」
そう。何も変わらない。変えられないのだ。
少年たちの言葉は、慎二の心をえぐった。そして憎悪の炎に油を注ぐ。蹴られる痛みも、蔑みの視線も、憎悪の前には霞んでしまう。慎二は自らの中に生まれた憎悪に身を焦がし続けた。
「ふむ。心地よい憎悪につられて出てきたが、なるほどな」
突然聞こえてきた男の声に、少年たちが驚いた。低く深みがあり、そして冷たく突き刺すような声。
少年たちの動きが一瞬、固まってしまう。憎悪に支配されていた慎二の意識も、あっさりと現実に引き戻されてしまうほど、それは力のこもった声だった。