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一ノ章乃陸

 放課後、美術室は美術部の部員たちで占拠される。三年生七人、二年生八人、一年生六人で構成される美術部。クラブ活動のそれほど盛んでない涼観りょうかん高校の文化部としては、規模の大きな方だ。

 今は夏休みに行われる作品展に向けて、各自出展用の作品を描いている最中だった。

 だが出席している部員は全体の半数ほど。真面目に描いている人間はさらにその半分だ。

「ねぇ、雪葉ゆきは。明日ヒマ?」

 二年生の美術部員、はら祥子しょうこが言った。肩までの黒髪に、太めのフレームの大きなメガネは昔流行ったアニメの主人公を彷彿とさせる。少女型ロボットのギャグアニメ。

「ん? なに?」

 雪葉はカンバスに向いていた顔を、祥子しょうこの方へと向ける。二〇号の大きさのカンバスには港を見下ろす描きかけの風景画があった。高台から見た、港町の風景だ。横の壁には元になった大きめの写真が貼リ付てある。

 それは去年家族旅行に行ったときに、雪葉が撮ってきた写真だった。

「だから、明日ヒマかって!」

 祥子の筆は二十分前から止まっていた。彼女が描いているのは果物の静物画だ。

「何かあるの?」と雪葉。

「別に何があるわけでもないんだけどね。あたしヒマだし」

「うーん。残念。明日はきょうちゃんを引き連れて買物すんの」

「うわ。でた周防すおう君。あんたらホントはつき合ってるんでしょ」

 祥子が雪葉の方へ身を乗り出す。

「違うってば」

「でも毎朝、起こしに行ってるんでしょ?」

「まぁ、そうだけど。だって、京ちゃん起きないんだもん」

「だからって、普通起こさないって」

「そう?」

 のんびりとした調子で、雪葉は言う。

「そうなの。朝イチで男の部屋に上がり込むなんて普通しないわよ。ただの幼なじみは」

「雪葉はいいよねえ。幼なじみの彼氏。なンかドラマみたいで羨ましいわァ」

 今まで祥子と雪葉の会話を聞いていた川崎かわさき瑞穂みずほが、会話の中に加わって来る。雪葉の方を向いた際に、ポニーテールが揺れた。

「だから、違うって」

「初恋と幼なじみか。素晴らしいじゃないか」

 さらにそこへ男の声が入り込んで来る。美術部部長、村本むらもと泰朗やすおの声だ。

「部長、好きだもんね。こういうネタ」

はら君。永遠の憧れといいなさい」

「漫画の読み過ぎだっちゅーの」小声で瑞穂が呟く。

川崎かわさき君。何か言ったかね?」

「いいえっ。なンでもありませンことよ。ホホホホホ」

 かなり小声言ったにもかかわらず、美術部部長は聞き咎めたらしかった。

「幼なじみはともかく、なんで初恋までついてくんのよ」

 雪葉がそっぽを向いてポツリと呟いた。だが、部長の耳はとことん地獄耳らしい。

「何を言うかね芹沢せりさわ君。初恋相手と幼なじみ。本来なら別けた方がなかなかにおいしい展開を期待できるのだが、君の場合はもう、幼なじみ=初恋の相手で決定だ。なぜなら君は幼なじみの彼がいるからだ!」

 村本むらもとは訳の分からない論法を力説する。

「また、部長の病気が始まった」

 瑞穂と雪葉、祥子の三人は顔を見合わせて苦笑した。

葉山はやま先輩もたいへんよねぇ。変態あんなのが彼氏じゃ」

 今年卒業した先輩の名を祥子は言う。雪葉たちが一年の時に美術部の部長だった女子生徒だ。

「そう言えば、部長も葉山先輩を追いかけて美大受けるンでしょ?」

「まぁ、絵は抜群に上手いからね。変態あんなのでも」

 話ながら、瑞穂と祥子が村本に視線を送った。

 部員たちに変態あんなの呼ばわりされた部長は、細い針金のような体に力をみなぎらせ「初恋とは何か」について力説していた。もう、回りのものなと見えていないようだ。

 それ以上は興味がないとばかりに、祥子阿と瑞穂は視線を雪葉に戻した。

「あやしいンだよなぁ、アンタたちって」

「だから違うって。祥子もしつこいなぁ」

「とか言いながらァ、周防君のこと考えてっしょ、今」

「……それはっ。瑞穂たちが京ちゃんのことを話してたからじゃん!」

 雪葉は一瞬だけ絶句して、慌てたように言葉を繋ごうとする。

「あ、ホントにそうなンだ」

 瑞穂の言葉に、雪葉は「しまった」という顔をする。

「ええい。いいかげン白状せい」

「そうそう。明るい話題を提供してくれたまえよ、雪葉」

「こら祥子、すり寄るなっ」

 じゃれ合う雪葉たち三人と力説を続ける部長を見ても、他の部員たちは特に気にした様子はなかった。誰もが苦笑いを浮かべるのみだ。これが美術部の日常なのだ。

「…………」

 そんな中で慎二しんじだけが雪葉を見ていた。

 彼のカンバスには、ギリシャ神話に出てくるような女神をモチーフにしたラフ画が描かれている。微笑む女神を小さな天使たちが囲むその絵は宗教画のようにも見えた。色彩が施されれば、さぞかし荘厳な絵が出来上がるだろう。

 慎二はは先程から女神の顔を何度も書き直していた。イメージが固まらない。何度描いても、彼か頭の中に描く女神に近づかない。

 描きたいものを彼はよく知っているはずだった。なのにそれが何かつかめずにいた。

 そして彼は気づいたのだ。自分が描きたい女神に。スケッチブックを取り出し、盗み見るようにしながら慎二は鉛筆を走らせる。

 笑い、はしゃぎ、困ったような顔をする雪葉の表情を一つひとつ追いかけ、それを焼き付けるようにし素描していく。

「だから、京ちゃんはなんでもないんだってば!」

 慎二の手は止まった。その時の雪葉の表情を見て、止まってしまったのだ。

 怒ったように祥子たちを睨む雪葉。だが、その目は本気で怒ってはいない。目に宿るのは優しい光。何かをいとおしんでいるような光。いとおしむのはこの場にいない誰か。

 慎二にはその誰かが分かるような気がした。

 急に、雪葉を盗み見ている自分が随分と小さな存在に思えてきた。どんなに彼女を追いかけようとも、自分を見てはくれないだろう。なぜなら彼女の意識の中には離れていても見つめ続ける存在がいるのだから。

 慎二はスケッチブックから、素描したページを破った。そして何度も何度も、それを細かく破いてゆく。気が済むと、それをゴミ箱の中へ叩きつけるようにしていれた。

 そんな慎二に誰も気づかなかった。

 慎二はそのまま誰にも気づかれないまま、美術室を後にした。

 ここにいると自分がつぶれそうだった。


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