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一ノ章乃肆

 今年の春は随分と暖かだった。五月の下旬でも、昼間の平均気温がかなり高いこともしばし。それでも朝夕は涼しくて比較的過ごしやすい。

 そんな朝の透き通った空気を感じても、時田ときた慎二しんじの心は優れなかった。校門から玄関へいたる道のりは慎二が通りたくない道のひとつだ。

 この涼観りょうかん高校に入学してまだふた月も経っていない。なのに、慎二しんじは学校が嫌いになっていた。

 縁なし眼鏡の奥の瞳には、常に何かに怯えたような光がある。それが、小柄でほっそりとした体つきと相まって慎二をずいぶんと気弱な少年に見せている。実際、外見の印象にたがわず慎二は気弱だった。

 本当は学校に来たくなかった。だが、入学早々に登校拒否をすれば両親に何を言われるかわからない。押しつけるだけで、何も自分のことを理解しようとしない両親に慎二は嫌気がさしていた。だが、反抗するだけの気概は彼にはなかった。もっとも、学校を休まない理由はそれだけではないのだが。

「よォ、時田ときた

 慎二の身が、一瞬すくみあがった。低いがよく透る声。それは朝から一番聞きたくない声だった。そして声の主は、慎二を学校嫌いさせた原因の一つだった。

「…………」

 ゆっくりと、後ろを振り向く。そこには背の高い、スマートな少年が立っていた。すっきりとした鼻梁に切れ長の目。なかなかハンサムな顔立ちをしている。

「あいさつぐらいしろよ、友達だろォ」

 まるで親友同士がするように、声の主は慎二の肩に腕を回してきた。だが、慎二を見つめる少年の目は決して親友に対して向けられる類の視線ではない。

 気弱な慎二にとって、少年の腕は牢獄の鉄格子に等しかった。

「……相川あいかわ君、おはよう」

 慎二は小さな声で、同級生にあいさつをした。相川と呼ばれた少年はそんな慎二の様子を満足気に見ている。

「時田。ちゃんと、持って来てくれたか?」

「…………」

 慎二は黙ったままうつむいた。相川の言葉はCDか何かを貸し借りするときのような調子だが、慎二の様子からそうでないことがうかがえる。

「困るんだよな。期限、とっくに過ぎてるんだぜ?」

「……無理だよ。十万円なんて」

「だからぁ、一度に払えなんて言ってないだろ? 分割でいいんだよ、分割で。手数料はちゃんとサービスしてやるから。とりあえず、二万。月曜日な」

「…………」

「おい時田。誰が西條さいじょうたちからお前のこと、守ってやってるんだ?」

「……わかったよ」

 満足気にうなづくと、相川は慎二を解放した。そして何事もなかったかのように慎二から離れる。

「相川君。おはよう!」

「おはよう」

 相川は挨拶してきた女子生徒と楽しそうに話しながら、慎二をおいて歩いていく。

 その後ろ姿を見ながら、慎二はぎゅっと唇を噛んだ。こんなの、中学校にいたころと変わらないじゃないか。何一つ変わらない。それが慎二には悔しかった。

 回りを歩く生徒たちは、慎二のそんな思いに気づかない。二人の会話すらも、他の生徒たちのお喋りに紛れて誰の耳にも届かないのだ。しかし例え気づいたとしても誰もが見て見ぬフリをして通り過ぎるだろう。それを慎二は、中学時代に嫌と言うほど思い知らされている。

 自分はどこにいても一人なのだ。

 高校に入れば何かが変わると思っていた。以前の自分を誰も知らない場所でなら、新しい生活が送れると思っていた。わざわざ家から遠く離れた私立の高校を受けたのもそのためだ。

 なのに、現実は何も変わりはしなかった。新しい場所でも慎二はイジメられた。新学期が始まってすぐに目をつけられたのだ。

 それを助けてくれたのは相川だった。慎二をイジメていた西條という少年のグループと、話をつけてくれたのだ。おかげて慎二は西條たちからはイジメられなくなった。

 最初は相川のことをいい人間だと思っていた。自分にも友達ができたのだと。だがそれは、慎二の甘い幻想だった。相川は助ける気などなかったのだ。

 慎二は相川の奴隷になってしまった。いま相川に見放されたら、また西條たちがイジメにやってくるだろう。悔しいけど暴力を振るわれるくらいなら相川に従っていたほうがマシだ。

きょうちゃん。どうせ明日ヒマだよね?」

「なんだその〝どうせ〟ってのは」

 すぐ横をあるく人影に気づき、慎二は一瞬ドキリとした。背の高い男子生徒の横を歩く、ショートヘアの小柄な女の子。入学して以来いつも見続けてきた美術部の先輩の姿。

「いいから。買いもの付き合ってよ」

「やだ」

「なにそれ」

「お前の買いものに付き合わされたら、貴重な休日がつぶれる」

「どうせゲームしかしないくせに。だいたい、この間約束したじゃん」

「何をだ?」

「賭けに負けたら、言うこときくって」

「……忘れた」

「だめ。決まりだかんね。明日迎えに行くから、準備しておくように」

「勝手に決めるなよ」

「おっ。時田君、おはよう」

 横を歩く慎二に気づいたのか、雪葉ゆきはが声をかけてきた。

「せ、芹沢せりさわ先輩。お、おはようございます」

 慎二は慌てたように美紀の方を向く。その動作はあまりに大げさだった。思わず美紀がくすりと笑う。

「驚かせちゃった?」

「いいえっ」

 慎二は自分でも、顔の温度が上昇していくのを感じていた。まともに雪葉の顔が見れない。嫌なこともあったが、今日はそんなに悪い日ではないのかもしれない。慎二は本気でそう思った。

「じゃあ、部活でね」

「…………え?」

 いつの間にか玄関についていたことに、慎二は気づかなかった。美紀が軽く手を振って去っていく様を何も言えずに見つめている。

 もっと話したかった。放課後になれば会えると分かっていても、いや、分かっているからこそもどかしいのだ。

 慎二がどんなに学校が嫌いでも休まないのは、雪葉に会うためだと言ってもよかった。それは、両親の目を気にするよりも大きな理由なのだ。雪葉に会えると分かっているからこそ、相川の仕打ちにも我慢できるのだ。

 雪葉はそんな慎二の気持ちを知らない。慎二は雪葉にとって同じ部の後輩でしかなかった。二人の接点はクラブ活動だけだ。

 慎二にしても、自分の気持ちを伝えようとはしなかった。自分が傷つくのが怖かったし、なにより当然のように雪葉の横を占有している京也きょうやの存在があったからだ。

 雪葉の後ろ姿を見つめる。そして京也の後ろ姿に目を移す。二人がならんで歩く姿が、ごく自然なことであるように慎二には思えた。そしてあまりにも自然過ぎて誰もその間に入れない気がした。

 京也のことは慎二も知っていた。京也と雪葉の関係は美術部で必ずのぼる話題のひとつだったからだ。雪葉は「単なる幼なじみ」だと言っていたが、こうして二人ならんで歩いている様を見るとそうは思えなかった。

 雪葉に会ったときの高揚感はすでに吹き飛んでいた。

 彼女の姿が下駄箱の向こうに消えるまで見続けながら、慎二は奇妙な敗北感に捕らわれていた。


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