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一ノ章乃参

 ほどよく暖まった布団というものは、至福の時間を提供してくれる。睡眠という行為だけでは得られない、心地よい抱擁の感触。

 周防すおう京也きょうやはその幸福を享受している真っ最中だった。

きょうちゃん。起きなってば!」

 カーテンを開ける音と共に部屋の中に朝日が入り込む。そして僅かばかりの間をおいて、暖かな抱擁感がなくなった。

「…………」

「こら、起きろ!」

「…………」

「お・き・ろ!」

 惰眠を貪っている状況から強制的に現実世界へと連れ戻されることは、決して愉快なことではない。京也きょうやは目が覚めたことを意識しながらも動こうとはしなかった。それが、自分の幸福なひと時を奪った者へのせめてもの抵抗だ。

 幸福の略奪者は諦めたのか、それ以上何も言ってこない。だが声のかわりになにやらがさごそという音が聞こえてきた。

 京也は薄目を開けて、そっと音のしたほうを盗み見る。紺のブレザーとスカート。制服に包まれた後ろ姿は見慣れた知り合いのものだ。昔からなにかと――京也には余計としか思えない――世話を焼いてくれる、幼なじみの芹沢せりさわ雪葉ゆきはだ。

 ほっそりとした後ろ姿が妙に色っぽく感じてどきりとした。京也と同じ十七歳だがここ最近、急に女らしくなってきたような気がする。特に意識したことはなかったのに改めてそう思う。

 そして改めて見るにつけ、京也は雪葉ががさごそと何か漁っているいるらしいことに気づいた。更にその場所になにがあったかを思い出して京也は文字通り飛び起きる。

雪葉ゆきは!」

 雪葉が漁っていたのは机の一番下の引き出し。そこは京也の男としての甲斐性が詰まっている女人禁制の場所だった。自分で手に入れたものだけでなく、友人たちから半ば強制的に貸し出された――しかし京也とて断ったりはしない――数々のDVDアイテムが保管されている場所。

「あ、やっぱ寝たふりしてた」

 にっこりと笑って雪葉が振り向いた。ショートの髪がよく似合っている。

 京也は雪葉に嵌められたことを知った。不貞腐れたように再びベッドに横になる。

「なにいまさら寝たふりしてんのよ」

「……あと五時間」

「土曜は午前で授業終わりでしょ。学校終わってるって!」

「昨日は遅かったんだよ」

「どーせ、ゲームやってたんでしょ」

「…………」

「…………」

 京也は横になったまま、しばらく雪葉と奇妙な睨み合いを続けていた。

 先に白旗を上げたのは京也だった。むくりと起き上がり、寝ぐせのついた髪を掻く。

「なぁ雪葉。なぜにお前は、毎朝ひとの部屋に現われるんだ?」

「そんなのいつも遅刻しそうだからに決まってるじゃない」

 何を今更といった表情で、雪葉は言った。

「誰がだ?」

「あたしと、京ちゃんが」

「お前ひとりで行けばいいだろうが」

「そういう言い方するもんじゃないよ」

 開け放たれた入り口から声がした。部屋の中を、四十代前半のスーツ姿の女性が覗いている。少し丸顔の小柄な女性――京也の母親の周防すおう芳江よしえだ。

「なんだよ、母さんまだいたのか」

 周防家は母子家庭なため、芳江が働きに出ている。中規模とは言え、商社の総合職である彼女の出勤は早く、いつも朝は京也より先に家を出る。

「忘れ物。それより、雪葉ちゃんに感謝しときなさい。迎えにきてくれるおかげで、あんたちゃんと学校に行けてるんだから」

「だからって部屋にまで上げるか、普通」

「ホント、助かるわ。雪葉ちゃん、いつもありがとね」

「いいえ。とんでもないです。おばさんにはお世話になってますから」

 京也を無視して、雪葉と芳江は家の前でばったり会った主婦のような会話をかわす。

「京也、雪葉ちゃんに迷惑かけないのよ」

 そして、息子にはそれだけを言って慌てたように去っていった。雪葉と京也がそれを見送る。

「さぁ、京ちゃん。着替えた着替えた」

 雪葉はハンガーラックに掛けてあった制服一式を京也に投げつけた。制服が見事に京也の顔にかかる。

「おまっ、投げてくんなよ。毎回毎回っ」

 制服越しにくぐもった声で言う京也を見て、雪葉は肩を竦めた。

「嫌ならちゃんと起きればいいじゃん。男の子なんだから準備なんてすぐでしょ?」

「一応、これでも寝癖とかとってだな――」

 制服から抜け出した京也が言う。

「もう。ホント遅刻するよ? 早く着替えてね、下にいるから」

 雪葉は慣れた様子で、京也の抗議の言葉を遮った。そして、あっさりと部屋を出ていく。タイミングを外された京也は口を半開きにしたままそれを見送ってしまう。

「年頃の女の子に起こしてもらえるなんて滅多にあることじゃないんだから、少しは喜べばいいのに」

 去りぎわの雪葉の呟きが、京也の耳に飛び込む。その「滅多にないこと」を、ほぼ毎朝のように体験している自分はなんなのだろうか。

 京也は声に出さずにぼやく。

「毎度ご苦労だな」

 突如、京也しかいないはずの部屋に、別の声が響いた。それは窓から差し込む朝日を受けてできた、京也の影からだった。壁に写る薄い影がみるみるその濃さを増していく。

「何しに出てきた」

 冷たい京也の声。雪葉と話していたときとはまるで違う。眼光も鋭く、別人のようだ。

「別に。手前ェらの漫才を見にきただけだよ」

「失せろ」

 声はどこまでも冷たい。室内の温度か下がったような印象すら受ける。

「おお怖。まったくとんでもねェ猫かぶってやがるよな。って、あっちが地か」

「失せろと言っている」

 京也は壁の影に向かって拳を叩きつけた。拳が壁に触れる瞬間、影は自然な濃さを取り戻す。

『早くしなよ。朝ごはん、食べるんでしょ?』

「分かってる!」

 階下から聞こえた雪葉の声に応えると、京也は服を着替えはじめた。



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