その時、扉が開かれた。
女性騎士に案内されて、フィアが部屋に入ってきた。ギルク伯爵の巨体を回り込み、俺の隣に座った。
フィアは、ちらっと俺を見て小さくうなずいた。事情は理解しているという合図だ。おそらくギルク伯爵か、この女性騎士あたりから、何らかの説明を受けたのだろう。
ギルク伯爵は、女性騎士に人払いを求めた。
小さく会釈して、女性騎士は扉の向こうへ下がった。
美しく知的な眼差しの女性騎士だった。しかし、俺は彼女に注意を向けなかった。
俺は、眼前に陣取るギルク伯爵の巨体と対峙していた。
供応の間は、俺とフィア、ギルク伯爵の三人だけになった。
そして、ギルク伯爵は、こう話し始めた。
「フィアよ、俺はおまえに奴隷として相応しい扱いをした。しかし、それは間違った情報に基づいた誤りだった。詫びたい。そのうえで、援助を申し出たい」
ギルク伯爵は「詫びる」と口にしたが、態度は程遠い。命令口調ではない。それだけだ。
フィアがぎゅっと、両手を握った。
「わたしが、エリュシア正王家の血筋と知って、言葉を改めるんですか?」
「そうだ。おまえの立場が変われば、言葉が変わる」
ギクル伯爵はさぞ当然のことと答えた。
「おかしくありませんか? わたしはわたしです。数日前に、地下牢であなたに鞭打たれた痕だって、まだ、消えていません」
フィアは瞳を赤らめた。フィアにとっては当然のことだ。ギルク伯爵の奴隷として、虐げられて、ときには鞭を浴びてきた。その扱いを急に改めると、言い放たれて、納得できるはずがない。
だが、ギルク伯爵は、そんなフィアを見て、ふっと笑った。呆れたような、感心したような、自然な笑いだ。
「おまえは、変わらないのだな。ただの奴隷の時も、正王家の姫君の身分だったと知っても……」
フィアは四日前の深夜、俺を庇い鞭打たれた。ギルク伯爵に立ち向かい抗議する瞳の強さは、何も変わらない。フィアは、フィアのままだ。
俺は、フィアの芯の強さを尊敬している。
だが、これでは話が平行線だ。何も始まらない。
硬く握られたフィアの手に、俺の手を重ねた。フィアが驚いて俺を見たが、俺はフィアではなく、ギルク伯爵へ目線で合図した。
納得はいかないし、不満はあるが、話を進めたい。
ギルク伯爵は、俺をぎろりと睨むと、本題の話を切り出した。
「フィアは、正式に正王家の姫として認められたいのだろう。その手助けをしたい」
鋭い眼差しがフィアの左手を見ていた。
「刻印…… のことですか?」
フィアが、戸惑ったように聞き返した。
「そうだ。エリュシア正王家の紋章、その刻印はこのベルイット城館にもある。中央塔の最上階、鐘楼の下に刻印を司る魔法陣がある。そして――」
「刻印を得るための試練は、城館の主、俺と戦って勝つことだ」
ギルク伯爵の危険極まりない両眼が、フィアから、俺へ視線を移した。
「そんな……!」
フィアが息を呑んで絶句した。
「どうだ、獣人よ。俺と命がけの真剣勝負をしたくはないか?」
ギルク伯爵の獰猛な瞳が俺を見据えて、煽る。威圧する。恐怖を俺に浴びせてくる。恫喝と挑発とが、
だが、俺は高揚感を感じていた。
このブタ野郎とバトれるだと! 最高じゃないか!
「望むところだ。ぶっ潰してやるぜ」
俺は笑い返した。
獣人同士が本気でやり合えば、ただでは済まない。
命を削り合うことになる。
それは理解している。
獣人戦士が争うのだ。
〈変異〉の禁忌を冒しても、なお足りないほどの殺し合いに、発展する可能性すらある。だが、俺の心の奥底で燃えあがる闘争心は、ギルク伯爵との決着を渇望していた。
ギルク伯爵も、そのはずだと直感した。
自らが鞭を振るい、鍛えあげた獣人戦士―― この俺が、どれだけに仕上がっているのかを、決闘によって確かめたいのだ。
戦うことが、生きる意味のすべて。
ギルク伯爵は、獰猛な獣人であり、戦闘狂とさえいえる危険な軍人だ。
俺に妖魔との戦いを強いた。無理やりにでも、獣人戦士として鍛えあげた。俺が戦い、傷つき血を流しているとき、ギルク伯爵は、必ず俺を見ていた。
常に俺の傍に立ち、戦えと命じて、鞭を振るっていたのが、ギルク伯爵だ。
ギルク伯爵にとっても、この俺は、ヤツが自ら鍛えあげた獣人戦士だ。
お互いに戦いたいに決まっている。
俺とギルク伯爵が、闘争心をむき出しにうなずき合う。
だが、フィアは、おろおろしていた。
突然、こんな形で決闘が決まってしまうことに、怯えていた。
「そんな、危険です。やめてください! 紋章の魔法陣は他にもあります。ここに拘る理由はないんですよ!」
フィアが半べそで俺の腕にすがってくる。
だが、俺はフィアを抱き寄せてもなお、ギルク伯爵を飢えた猟犬の目で見据えていた。
「安心しろ、フィア。決闘には刃を潰した刀剣を用いる。大怪我くらいはするが、死ぬことはない。この獣人は、王宮から預かった大切な王太子殿下の身代わりだ。まだ死なせるわけにはいかぬのでな」
ギルク伯爵がフィアをなだめた。
しかし、凄惨な眼光は、彼の元奴隷少女ではなく、俺を見据えたままだった。