星歴899年 11月21日 午後20時30分
ベルイット辺境領 地底湖 ゲストハウス
初めての刻印をフィアが得たその日、ささやかな晩餐を自動人形のメイドは催してくれた。俺とフィア、給仕役を務めるメイドの3人だけの本当にささやかな夕食会だ。
エリュシア古王国の治世だった頃ならば、おそらく大勢の貴族や騎士たちが、後継者候補の姫君を取り囲み、盛大な祝宴が開かれていただろう。晩餐の間に置かれたは、テーブルは50人は一度に会食ができる大きさだった。
俺とフィアのささやかな晩餐が終わる頃、薄紫色の奇麗な小箱が出された。
メイドの様子から、これも何かのセレモニーの一環なのか、と感じた。
「刻印の地が記された地図ですわ。初めての刻印を済まされたフィア様が、これからたどる旅路への当館からのはなむけとなります」
箱を開くと、古びた地図が1枚、収められていた。
◇ ◇
星歴899年 11月22日 午前10時40分
エルム辺境領側 エルム
翌朝早く、メイドに見送られて、ゲストハウスを出た。
行きの苦労が嘘だったように、反対側出口への行程は順調だった。
フィアは、騎士服に着替えたが、俺はタキシードのままだった。
「絶対、タキシードの方が良いです!」
と、フィアが主張して譲らなかったのだ。躊躇はしたが、人喰い箱のハコちゃんが用意するタキシードは、仕立てが良く動きやすい。問題はないと判断し、フィアの希望に従った。
あの黒き影の魔導騎士に、礼を言いたい気分だ。それくらい余裕だった。
その余裕が油断に繋がった。
エルム
そんな風に考えていた。
だが、ふいに気づいたのだ。
獣人の勘が、俺の中でけたたましく警鐘を鳴らした。
立ち止まる。
「どうしたの?
フィアが怪訝そうな声で尋ねた。
見つけただと? その言葉で気づいた。
視界の中にあって、意識にあがらなかったもの。
気づいたとたん、しまったと感じた。
脇道街道の地面には、いくつも足跡が残されていた。
どれもが軍靴と思われる形状をしていた。
「フィア!」
俺は叫んで、俺の主であるクォータエルフの少女へ駆け寄ろうとした。わずか数歩の距離だが、俺は間に合わなかった。
「あうっ!」
フィアが、か細い悲鳴を漏らして跪き、身体を抱くような仕草で倒れた。
俺はフィアを抱きかかえた。すでにフィアは息はあるが意識を失っていた。
肩口に、吹き矢らしいものが刺さっていた。
ぐったりしたフィアを抱き、短剣を抜き放った。
俺そして、俺は、水没した
人食い箱が代わりに用意したのは、短剣だった。
正確には、あの黒き影の魔導騎士が用意した。この託送方法は便利だが、送ることができる装備の大きさは、人食い箱のサイズに限定される。
人食い箱は文字どおり、フィアなら中に入れるほどに大きい。だが、俺の戦斧はさらに巨大なのだ。戦斧は巨大ゆえに盾にもなり、大質量を振り回す破砕の鉄槌にもなる。言い添えると、短剣は十分に良質なものだった。だが、それでも破壊力は足りない。
手詰まり感に焦る俺は、森の茂みから現れた兵士たちに囲まれた。
遅れて、やはりというか、甲冑姿のギルク伯爵が歩み出た。
「大人しくしろ、フィアに毒針を撃った。急ぎ解毒剤を飲ませないと、その娘は死ぬぞ」
ギルク伯爵が冷笑した。
はったりの可能性はもちろん考えた。だが、腕の中で人形のように昏睡するフィアを見て、俺は屈するしかなかった。
「やれ」
ギルク伯爵が短く命じると、兵士たちが駆け寄る。俺は手足と首輪に鎖を繋がれた。ギルク伯爵は、俺の両腕から、フィアをもぎ取った。
そして、怪訝そうに顔をしかめた。
フィアを包んでいる騎士服が、上質な絹と木綿の
そして、フィアの左手に刻印があることに気付いた。
ギルク伯爵が息を吞んだ。驚愕に表情が彩られた。
やばい。フィアがエリュシア正王家の末裔と気づいたのか?
まさかと思った。
フィアの左手の甲に記された淡い紋章は、百合花十字剣を形作る花弁の一片にすぎない。辺境の一軍人が気付けるのか?
だが、俺は背筋に冷たいものを感じていた。
まず、ギルク伯爵がなぜ、ここで待ち構えていたのか?
早すぎるのだ。王都からの使者が馬を走らせたとしても、早すぎる。しかも、俺たちがここにいることを、なぜ、知っていた?
そもそもギルク伯爵は、辺境砦を落とされた後、ベルメト関門を最終防衛ラインに防備を固めている最中のはず。妖魔の大群がそこに迫っているのに、なぜ、ベルメト関門を留守にできるのだ?
ここは、古代地下隧道のエルム辺境領側出口だ。
ギルク伯爵は、敵妖魔の大群がベルメト関門に迫っているにもかかわらず、任地を留守にして、隣のエルム辺境領へ兵士を伴い来ている。
なぜだ? あり得ない。そう思った。しかし……
「むう、これは、
ギルク伯爵がうなった。
俺は、脳天をハンマーで殴られたように感じた。
あの男だ。
あの黒き影の魔導騎士だ。
あのいけ好かないキザ野郎が裏切った。
そう考えたら、すべて符合する。
あの黒き影の魔導士は、助力と言いながら、俺たちを監視し、ギルク伯爵に売ったのだ。
あの黒き影の魔導騎士は、妖魔の大軍を、数千の黒き骸骨兵の群れを操っていた。ベルメト関門への妖魔の侵攻を取りやめにすることできるはずだ。
さらに、肉食獣魔を使い、調べあげて、フィアがエリュシア正王家の末裔という詳細ステータスを手にしていた。この情報も、俺たちが地上へ戻ってくるタイミングも、あの黒き影の魔導騎士ならば、ギルク伯爵へ提供できたはずだ。
ギルク伯爵と、クロイツエルのキザ野郎が、取引したのだ。
ちくしょう、やられた。
ギルク伯爵は、低い声で唸りながら、その腕の中で無抵抗に昏睡する少女を眺め下ろしている。俺は、兵士に囲まれ、鎖に縛られて、屈服させられた。俺の中で、最悪の予感が去来していた。
だが……
「馬車を用意しろ。この少女と獣人を城へ連れ帰る」
驚きだった。
勇者の複アカの俺は、王室から預けられた特別な奴隷獣人だ。
だが、フィアはギルク伯爵にとって、小間使い役の奴隷少女にすぎなかったはずだ。それが、馬車だと?