星歴899年 11月21日 午前7時00分
ベルイット辺境領 エルム
翌朝、早くに食事を済ませ、メイドの自動人形が用意した船で地底湖を渡った。
メイドが説明した。
この湖の底に秘匿された第7階層が存在し、刻印の祭儀場はそこにあるというのだ。
フィアは儀式用の正装となる黒いドレス姿。これも人食い箱が用意した。あの黒き影の魔導騎士は、完全にこちらの展開を読んでいる。
見張られているとしたら……
「あやしいのは、こいつか?」
ハコちゃんこと、人喰い箱を睨んだ。
このふざけた人喰い箱がスパイだろうか? あまりにもおまぬけな見た目の人喰い箱だけに、これが監視装置だとは、正直信じたくなかった。
そして、俺の衣装はというと、昨夜と同じ黒いタキシード姿だ。同じといっても、きっちりシャツにアイロンがけされている。
クロイツエルは、いけ好かないキザ野郎だが、この誠実な仕事ぶりには感心した。
さすがに、ヤツ自身が準備しているとは思えない。それでも配下には、仕事に誠実な従者がいるはずだ。何にせよ、誠実な仕事には感謝すべきだ。
朝食の後、メイドは、俺とフィアを桟橋へと案内した。
「さあ、紋章授与の儀式へ参りましょう」
ゲストハウスのガラスドアが開け放たれた。朝の清涼な空気が気持ちよかった。
そして、メイドの自動人形は、ゆっくり優雅に櫂を操る。
ゴンドラと呼ばれる類の手漕ぎ船だ。舳先にオレンジ色に輝くカンテラを吊るし、まだ薄暗い湖面を滑るように進んだ。
「ここですわ」
メイドが船を止めた。
案内されなければ絶対に気付けなかっただろう。黒い水面の中に、小さな祠が突き出していた。俺が先に渡り、フィアの手を引いた。ドレスにヒール履きのフィアは、足元がおぼつかない。
フィアの手を引き、湖水で濡れた石階段を降りた。
先に立ち、カンテラを手に案内するメイドは、さすがは自動人形だ。石階段を律動的なステップで降りてゆく。
石階段をずいぶん降りた後、開けた地下空洞に出た。真っ暗で何も見えないに等しい。メイドが手にしたカンテラは、俺たちの周囲だけを照らしており、この空間がどうなっているのか? まったく分からない。
ただし、音の反響具合から、この空間が半球形をしていること。ドームスタジアム並みの広さと高さを持っていることを、獣人の耳が告げていた。
「ここが試練と祭儀の間です。フィア様は、ここからはおひとりで進んでください」
「あの、ここに何があるのですか? 試練って……?」
フィアが聞き返した。
カンテラの光の中で、メイドが笑う。
「ご心配ありませんわ。この祭儀場には真実を映す鏡があります。その鏡に映るご自身の姿を見ること―― フィア様が見るべき真実を見ること。それだけですわ」
「あ、そうなんですか」
フィアがほっと安堵した。
メイドがフィアを賓客として扱っている以上、少なくとも、ドレス姿で戦いになる場面はないと踏んでいたのだが…… 俺は、一抹の不安を感じた。
「
フィアは繋いでいた手を放す。黒いドレスに開いた白い背中が、闇の中へ小走りに駆けて行った。
「あっ!」
闇の中から、フィアの悲鳴がした。
「フィアっ!」
思わず叫んだ
「だいじょうぶ、ちょっと、転んだだけ」
フィアのてへへっと、照れ笑いを含む声が返ってきた。
驚かせやがって…… 俺は、ため息をついた。
フィアが立ち上がり、ドレスの裾を直している様子が聞こえた。それから、慎重になった靴音が聞こえた。
だが……
ふいに靴音が途切れた。
目を凝らしても、深い漆黒が視界を閉ざしている。
獣人の耳を澄ました。フィアと俺の間に、不可視で遮音性の膜があるかのように、音が空間に吸い取られている。
「ご心配な様子ですね」
カンテラの光の中で、メイドの自動人形が微笑む。端正な顔立ちだが、機械的に整った微笑みからは、意味が取れない。
「俺が、フィアを助けに行きたいと言ったら、何か問題はあるのか?」
一瞬、躊躇したが、疑問はさっさと片付けるべきだと腹をくくった。
「いいえ。
メイドの言い回しが妙に引っかかるが……
――俺の真実の姿だと?
ああ、問題はない。
俺は、俺が本当は誰なのかを知っている。
理不尽にも突然に異世界へ召喚された高校生だ。
いまさら、見慣れた元の顔を見たところで、驚くことは何もない。
「大丈夫だ。問題ない」
「そうですか。それなら、お行きください」
メイドはそういうと、カンテラの灯を消した。
周囲は完全な闇に閉ざされた。眩暈がするほどに何も見えない闇だ。
だが、俺は、獣人の耳はフィアが駆けて行った方向を覚えているし、消えるまでの歩数も数えていた。
フィアの小さな歩幅で192歩。転んだ分を差し引いて、約190歩だ。
俺なら、80歩ほどで到達できる位置に、まず、何か遮音性の壁体があるはずだ。
俺は小走りに駆けだした。
背後で、メイドがお辞儀をして見送る気配がした。
◇ ◇
74歩の位置に、石張りの床に乱れを見つけた。長い時間の経過により傷んだらしい。床に敷き詰められているはずの石が、ひとつ外れて転がっていた。それを靴先で踏み、確認した。フィアはこれに躓いて転んだのだ。
ならば、あと、6歩で、何かある。
俺は慎重に歩んだ。
武器は携行していない。おそらく、メイドの話から察するに、真実の鏡がもたらす試練は、心理的な現象のはずだ。俺は微かに鼓動が高鳴るのを感じていた。
5歩
4歩
3歩
2歩
1歩
突然、白昼の陽光の中へ飛び出した。