目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
第6話 何の根拠もない約束の言葉

青藍せいらん、〈DOWNダウン!〉」


 フィアが命令語を使った。崩れたまま身体が動かない。

 俺をあくまでも庇うつもりなのか。

 こんな殊勝なことをしても、ギルク伯爵のブタ野郎には通じない。また、鞭を受けることになる。俺はフィアが傷つくのを見たくない。


 グルル……


 力任せに、命令語〈DOWNダウン〉の効果を打ち破ろうと、もがく。俺の脳は、〈変異〉を望んでいた。


青藍せいらん、〈CANCELLATIONキャンセレーション〉」


 フィアが、〈取り消せ〉と命令語を重ねた。〈変異〉しかけていた俺から、熱までもが奪われた。

 名前を呼ばれ、命令語を与えられると、フィアの奴隷である俺は逆らえない。

 命令語は、心を支配するのだ。


 無力にとされた俺は、それでも気持ちだけは戦い続けたいと、足掻く。

 心までは奪われたくない。

 フィアが傷つくのを、ただ見ているだけの無様な存在に落ちたくない。


 肩までに切り揃えた白銀色の髪が揺れた。

 床へうつ伏せた俺に、フィアが膝をついた。

 フィアの手が俺の頭を撫でる。


 不思議な安心感があった。

「ごめんなさい。青藍せいらん、いまは耐えて」

 押し殺した少女の声が、俺に約束した。そう感じた。

 全身を鞭打たれた痛みをたえるフィアの声に、絶望や隷属はない。


 はだけかけた服の胸元に、〈死の楔〉の紋様が見えた。

 同じ紋様は、俺の胸にもある。


 奴隷にされた俺とフィアは、命令語に縛られて、首輪をされているだけではない。

 心臓にまで達する〈死の楔〉という魔導に呪われていた。反抗を試みれば、直ちに殺されると、告げられていた。


 しかも、この〈死の楔〉が発動する条件を知らされていない。

 ギルク伯爵のブタ野郎が、何か良からぬ呪文を唱えたら、俺とフィアは直ちに殺されるのかも知れない。


 たったひとこと―― 反抗は死である。


 それだけを大司祭から伝えられている。

 獣人として、自我を失うリスクを冒して〈変異〉を起こしても、〈死の楔〉がある限りは、無抵抗な死が待っている。それは知っている。だが、目の前でフィアが、鞭打たれる姿を見せられて、無様に床にぶっ倒れていられるか!


 だが、フィアが、俺に言い聞かせた。

「いまは我慢して。きっとチャンスは来るから……」

 何の根拠もない約束の言葉だ。

 しかし、フィアの声は絶望していない。

 いや、自暴自棄の〈変異〉を望んだ俺が、恥じるべきだと気づかされた。


「すまない」 

 だから、俺はフィアを信じた。

 フィアは、俺に額を寄せて、小さくうなずいた。


 そして、後ろを振り返り、キッとギルク伯爵を見返した。

 フィアの冷涼な青い瞳と、俺の血に飢えた赤い眼が、ただ力だけを求める奴隷主、ギルク伯爵を射る。


 暴力にも、恫喝にも屈しない。

 フィアが、内に意思を秘めた小さな奴隷少女が、俺を導いてくれる。


「今日は、このぐらいにしてやる」

 ギルク伯爵が吐き捨てた。



 ◇  ◇



「フィア、おまえは城館へ来い。傷の手当てをしてやる」

 ギルク伯爵が、フィアへ手を差し伸べた。


「要りません。鞭を受けたのは、あたしが望んだことですから!」

 フィアが言い放った。

 ギルク伯爵が、呆れたようにため息をついて見せた。

「フィア、意地を張るな。おまえは、そこの獣人ほど頑丈にはできていない」

 それでもフィアの紺碧の瞳は、ギルク伯爵を見据えている。


「変わったな、フィア。ただ怯えるだけの小娘だったのが、どうだ。無様に倒れている獣人よりも、よほど気丈だ。何が、おまえを変えた? 恋か?」

「なっ……!?」

 フィアが、赤らんだ頬を両手で被った。


「ギルク、きさまっ!」

 俺は吠えたが、ギルクは大笑いした。


「フィア、手当てをするから城館へ来い。そんな格好でいつまでもいる気か?」

 ギルク伯爵が苦笑いする。

「あっ……」

 フィアは、胸元がはだけていることに気づいて、慌てて両手を胸元に合わせた。


「手荒な真似をしてすまなかった。そこの若輩者を奮起させるには、おまえを使うのが、ちょうど良いと思っただけだ」

「それなら、もう、鞭は使わないと約束してください」

 フィアは、背後に俺を庇うように立ち、ギルク伯爵と対峙している。


「ダメだ。その獣人を鍛えるためには、鞭が必要だ」

 言うなり、鞭を床に走らせた。

 鋭い破裂音に、フィアの背中が一瞬、竦む。

 フィアは、一瞬でも鞭の音だけで身体が竦んでしまった。

 フィアの悔しそうな一瞬の表情も、ギルク伯爵は見逃さなかった。


「言葉では気丈になれても、鞭は怖いだろう。だからだ。鞭はまだおまえたちを鍛えることに使える」

 ギルク伯爵は、フィアへ手を伸ばした。

青藍せいらん、ごめん……」

 小さい声がつぶやいた。

 フィアは、仕方なくギルク伯爵の手を取り、地下牢から出された。



 ◇  ◇



 なぜ、この世界は理不尽にできているのか?

 鞭打たれて、ブタ野郎に支配される。

 唯一、俺を受け入れてくれたフィアを守ることもできない。


 だが、フィアが願ったチャンスは、その夜、意外にも早く訪れた。


コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?