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第5話 強いられる〈変異〉

 季節は、瞬く間に過ぎた。

 ギルク伯爵のもとから、フィアを連れて逃げ出す計画は、いまだに実行に移せていない。獣人奴隷の戦士となった俺に、ギルク伯爵の眼が常に光っていた。

 地下牢には、常に見張が立ち、経験値稼ぎの鍛錬の際は、ギルク伯爵が自ら立ち会っていた。

 さらに言うと、たとえこの砦から逃げ出せたとしても、その先は行き場所がない。


 ベルイット辺境領の大半は、妖魔が支配している。魔導生物が巣くう森。それ以外は、荒涼とした大地が広がっていた。ただ、砦を抜け出しただけでは、食料が続かない。行くあてもない。

 警備が厳重なベルメト関門を通らない限り、ベルイット辺境領からは出ることすら、叶わない。となれば、ギルク辺境伯爵は、むしろ喜んで、逃げ出した俺たちを、狩り出すだろう。

 肉食動物は、狩りが大好きだ。

 ギルク辺境伯爵は、ブタ野郎だが、間違いなく肉食の類だ。


 手詰まりの中、俺は何カ月も、無謀な戦いと鞭に耐えていた。



 ◇  ◇



星歴899年 11月18日 午後20時00分

ベルイット辺境領 守備砦 地下牢


 汚い床に倒れた俺を、鞭が打ち据えた。

 俺は、首輪をされて、後足にも足枷をされていた。

 青灰色の毛皮が泥にまみれて、俺は血を吐いた。


 グルル……


 俺は、屈辱をけして受け入れないと誓っていた。

 いきり立つ奴隷主、ギルク伯爵のブタ野郎を、飢えた狼の眼で睨みつけていた。


 喰い殺してやる。

 グルル……


 俺の怒りが、そのまま喉を鳴らす。


「ほう、逆らうのか。血に飢えた獣の眼は良いぞ」

 ギルク伯爵の声が、風切り音をらせ、鞭が俺を切り裂いた。俺が抗うほどに、ギルク伯爵は嗜虐性を高ぶらせていた。


「おやめください!」

 少女の小さな背中が、俺を庇うために、割って入った。


「その獣人は、訓練が足りないのではないか? もっと鞭が必要だろう?」

 ギルク伯爵が鞭を振るい地下牢の床を打つ。残酷な鞭打つ音が、フィアを威嚇した。


「いいえ、もう、鞭はおやめください」

 フィアの小さな背中が、震えた声で答えた。

 クォータエルフの白銀の髪が、牢獄に吹き込む寒風に揺れて、薄闇に輝いていた。フィアの気丈さには感謝しているし、驚かされる。


「王都からは、『経験値をさらに送れ』とのご命令だ」

 ギルク伯爵が、ステータスを写す水晶板を手に、俺を睨んだ。


「むう。〈変異〉を起こすには、まだ、怒りが足りぬか」

 ギルク伯爵が凄みのある声を絞った。


 〈変異〉


 それは、獣人にとって、諸刃の刃というべき、特殊能力だった。

 理性を失い、ケダモノに成り果てる代わりに、無制限の爆発的な力を得る。


 そう、ギルク伯爵は、ひたすらに力を求めていた。

 俺を鍛えあげて、経験値を収穫する。

 ギルク伯爵は、王の命令で俺とフィアを預かり、経験値を収穫していた。

 王都にいる真の勇者になるべき王太子へ、経験値を送ることが―― 公式には目的だった。


 だが、ギルク伯爵は、戦闘狂であり殺人鬼というべき軍人だ。

 暴力的な力への信仰心があり、彼と同じく獣人である俺にまで、〈変異〉がもたらす爆発的な力を押し与えようとしていた。


 ここは、妖魔の群れが押し寄せる最前線に位置する砦だ。いくらでも魔獣や妖魔が現れる。俺は、瀕死になるまで、不利な戦いを何度も強いられた。


 さらに、妖魔が現れない時は、鞭だ。

 ギルク伯爵の考え方は単純で、身体を痛めつければ、鍛えられて強くなる。それを容赦なく実践した。無理にでも〈変異〉の力を、俺に目覚めさせようと強いた。


「鞭だ。鞭で、身代わりの獣人奴隷を刻む。虐待により得られる経験値が、魔法契約により変換される。王国を救済する真の勇者王太子へ、経験値が献上される。どうだ、まだ鞭が足りないぞ」

 鞭が俺の背中に走った。先ほどからの鞭責めで、全身にうっすらと血を流していた。鞭打たれる痛みは、すでに麻痺している。だが、ブタに支配される屈辱には慣れそうにない。


「もう、おやめくださいっ!」

 フィアが両手を広げて、ギルク伯爵を遮った。

 クォータエルフの小さな背中が、無様な俺のために必死になってくれる。


 だが、ギルク伯爵の眼が一瞬、俺を見た。

 目線で、無様に倒れている俺に合図したのだ。


 ギルク伯爵の表情が陰惨にゆがむ。

 いけないと感じたが、俺よりも、ギルク伯爵の鞭が速かった。


「きゃうっ!」

 フィアが鞭に打たれた。牢獄の床に転がる。騎士服が裂けた。雪肌に鞭の跡が赤く腫れている。


 なおも、フィアは立ちあがった。

 小さな背中が俺をかばった。

 鞭を構えたギルク伯爵に対峙して、また両手を広げる。


「逆らうな、おまえも奴隷の身分だとわきまえろ」

 ギルク伯爵が、フィアに再び鞭を振り下ろした。


「ギルク、貴様っ!!」

 これがギルク伯爵の仕掛けた罠だと気づいていた。気づいていたとしても、許せない。抑えきれない怒りが俺の中で渦巻いた。


 弾けた怒りで脳が〈変異〉しかけていた。

 〈変異〉に必要なモノは、単純な怒りだ。

 理性によるくびきを外された時、獣人はケダモノとして〈変異〉する。


 悪鬼の如き怒気をたぎらせた。立ちあがろうとした。俺の後足に繋がれた鎖が引き寄せられ、地下牢の床を走り、ジャラジャラと不快な金属音を立てた。


青藍せいらん、だめ、やめてっ!」

 フィアが気付いて、俺の名を呼び、制止した。

「〈変異〉はだめ! 青藍せいらん青藍せいらんじゃなくなってしまうよ!」

 だが、〈変異〉が起きる寸前の俺は止まらない。


 獣人の脳は怒りにより〈変異〉を起こすのだ。自我を失うことと引き換えに、鎖も足枷も引き千切る絶大なパワーを得られる。


「獣人、さあ、〈変異〉しろ。俺を殺したいと渇望しろ」

 ギルク伯爵の野太い声が、俺を挑発した。


 ああ、殺してやるさ。このブタ奴隷主の頭を、俺が、いま粉砕してやる。

 ゆらゆらと立ちあがった。


「いい覚悟だ。獣人は〈変異〉により死を恐れぬ最強のケダモノになる。人間であることをいますぐ捨てろ」

 ギルク伯爵が、言葉をしゃべるブタ野郎が、俺を煽り立てた。

 自我の喪失がなんだ? 殺してやる。ケダモノに成り果ててでも、ブタを挽き肉に変えてやる。


 俺は黒い鎖を引きずり、一歩、踏み出した。

 ギルク伯爵が舌なめずりしながら、剣を抜いた。

 いいだろう。いま、ここで、殺し合いといこうじゃないか。


 だが――


青藍せいらん、〈DOWNダウン!〉」


 フィアの氷水のように澄んだ声が、伏せと命じた。

 鞭打たれて血が滴る細い指が、床を指した。


 ギルク伯爵の頭蓋を叩き割るために振りあげたコブシが、力を失う。俺の体は押さえつけられ、薄汚れた監獄の床に縫いつけられた。



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