「俺は、ベルイット辺境領を守る者、ギルク辺境伯爵だ」
大柄の男は、人間とは違って見えた。
「俺も獣人だ。たっぷり鍛えあげてやる」
ギルク伯爵は、ブタ顔に見えるが、おそらくイノシシ系の獣人だろう。口元から汚い牙が覗いていた。
〈死の楔〉では、逆らったら殺すと脅すことはできても、経験値稼ぎという重労働をさせることはできない。命令にもっと積極的に従わせる必要がある。
妖魔の大群相手に無双できるレベルを手にするには、能動的に俺を鍛える必要がある。
だから、やつらは奴隷契約を使った。
初めは軍人であり、妖魔との戦いの最前線にいるギルク辺境伯爵が、直接に俺を奴隷にしようとした。だが、俺は必死に抵抗した。
「誰が、奴隷だ! おまえたちの言いなりにはならない!」
奴隷契約とは、血と引き換えに、隷属を誓わせる魔導だった。
ギルク伯爵は、自ら手首を切り、血を俺に浴びせた。
だが、ブタ野郎の血を顔に塗られ、俺は不快極まりなかった。
「血を与え、魔法的な奴隷契約で縛るだと!? 気持ちの悪いやつらだ。ふざけるな!」
俺は、猛獣のごとく、吠えて暴れた。
「むう、この獣人との契約には、もっと魔導力のある血を大量に与える必要があるな」
ギルク伯爵は、うなった。
◇ ◇
つぎに引き出されたのが、小さなクォータエルフの少女だった。
ギルク伯爵は、凄惨な冷笑を浮かべていた。
短剣を抜いた。
少女の細い手首をつかみ、俺の胸の上へ突き出させた。乱暴な扱いに、少女はつんのめり、幼顔をしかめた。
「このクォータエルフの娘は、俺の奴隷だ。俺の命令なら、何でもきく」
少女は恐怖に蒼ざめていた。ギルク伯爵は短剣を少女の手首に向けた。
目の前には、俺という獰猛な獣人が吠えている。
「フィア、この獣人と奴隷契約を結べ。おまえがこの獣人の奴隷主となるのだ」
「そんな…… できません」
不思議と涼やかでハスキーな声が、震える。
目の前にした獣人、俺は、激しく暴れていた。小さな少女が御することができる相手とは、思えなかったのだ。
「命令だ。フィア、〈GO!〉」
ギルク伯爵が命令語を発した。
俺は、その時、初めて命令語の効果と、この魔法世界における奴隷の意味について知った。
少女は短剣を手渡されると、わなわな震えながらも、細い手首に自ら短剣を押し当てた。
「た、助けて、ください…… こんな、恐ろしいこと…… いやっ!」
悲鳴が涙になって頬を伝う。
深紅の赤い血潮が迸った。
少女が手首を切ったのだ。そして、その鮮血が俺に降り注いだ。
「け、契約を、獣人よ、私に隷属を誓いなさい」
少女の鳴き声が俺に命じた。
だが、俺は吠えて拒んだ。
少女が、恐怖に震える。
そして、手首をさらに深く短剣でえぐった。
残酷なほどの量の血があふれた。
恐怖と緊張で少女の鼓動が早鐘を打っていた。血は激しく止まらない。
「獣人よ、隷属を誓いなさい」
先ほどまで、大司祭、そしてギルク伯爵と戦っていた俺の闘争心は、燃え盛ったままだ。魔法的な力が俺の心を縛ろうとするたびに、激しく暴れて抵抗した。
そのたびに、少女は血を流した。
少女は立っていられなくなり、俺の傍らに跪いた。
間近に少女の泣き顔があった。白銀の髪がさらさらと輝いている。
俺は、少女の碧の瞳を見詰め返した。
「獣人よ、隷属を……」
決まり文句を繰り返していた少女の瞳が見開かれていた。涙で濡れているが、言葉が途切れ、俺を見詰めていた。
出血ショックで少女は気絶しかけていた。小さな肩が短剣を握ったまま喘ぎ、血しぶきで汚れた胸が弾み息をしている。
それでも、少女は俺にふんわりと微笑んだ。
吠え続けていた俺は、少女の泣き笑いのような透明な表情に魅入られた。
そのとき、俺たちは互いに、初恋という感情に気づいたんだと思う。
少女の瞳は、恐怖から、悲壮なまでの決意に代わっていた。
そうだ。少女はこの瞬間、ギルク伯爵に命じられたからではなく、自らの意思で俺との契約を望んでいたのだ。
「獣人さま、私は、フィアです。私と契約してください」
フィアと名乗った少女は、声を振り絞った。
声の色合いが変わっていた。
手首では足りないと悟った。短剣を両手に持ち替え、手首を返した。
フィアは、短剣の刃を自らの胸に向けていた。
まさかと思った。
誰も、瀕死になるまで血を流している少女を止めようともせず、見守っていた。
「――やめろっ!!」
俺の叫びは届かない。少女は短剣を胸に刺した。そのまま、俺の胸板の上に倒れこんだ。温かい血が俺を濡らしていく。
俺は泣いていた。
奴隷契約の首輪が、俺の首に出現した。
俺は、ギルク伯爵や、やつらの汚い計略に屈服したんじゃない。
命がけで俺との契約を望んだ、フィアの願いに負けたんだ。
「ありがとう、ございます」
俺の胸板の上で、白銀の髪の少女は、泣き笑いの表情でそう言った。
フィアは、一瞬で相手を見抜く感覚の持ち主だ。
そのフィアが命懸けで俺との契約を願った。
俺は、フィアに選ばれたことを誇りにしたい。蒼ざめるほど血を与えられた。その痛みや苦しみに応えたい。そう、願うようになっていた。