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37 終わりの兆候

 丁度夏の盛り。午後七時になろうが、空はまだ真昼のように明るかった。

 そんな事を思うと時間の流れがやけに速く感じる。

 涼やかな春。アイリーンを攫った。そうして時を重ねて……。

 必然的に思い出す昨日の彼女に、ジャスパーは歯痒いとも恥ずかしいとも苦しいとも言えぬ複雑な表情を浮かべた。

 昨日……歯の浮くほど甘い台詞を並べて、雨上がりをまって何度も唇を重ねた。

 続きをせがまれて、自分でも阿呆かと思う程に興奮した。けれど、どうにか理性が働いて自制できた。

 自制したのは立場が云々などではない。別にそこはどうでもいい。

 最大の理由は、明らかに彼女の状態が良くない事が分かっていたからだ。

 一見元気そうではあるが〝過去視のような夢を見た〟と語った後から、アイリーンの様子は明らかにおかしくなっていた。

 悪く言えばアイリーンは鈍臭い。

 直接会ったあの日から隙が多いとは思ったが、もはや今は隙しかない。本人は無自覚だろうが以前より随分とぼんやりとしている。

 不安を煽ったのは、彼女の幻聴だった。

 ……幻聴は、死が間近まで歩み寄ってきた兆候だからだ。

 幻聴を聞くようなると、侵食が急加速するとの記述がフローレンスの手紙にあった。

 これに関しては、錆の王子も同じ兆候が出る。先代のフリントは石英樹海上空で散っているが、フリントの先代に当たる錆の王子は、この兆候があった事を晩年の手記で綴っていた。

 どのくらいでとは詳しくは分からないが、彼に関しては三ヶ月経たずに死んでいる。

 アイリーンは自らのその兆候を知らない様子だった。当たり前だが、言えば不安を煽る恐れしかない。とてもではなくそんな事は教える事ができなかった。

 この無情さにジャスパーは打ちひしがれた。

 見るからに体調は良さそうで、侵食はさして進んでいないが、石英樹海と離れても呪縛は彼女を睨み据えたままだった。

 樹海の外に出ても女神が死なない事を神殿側は確実に見通していたのだ。きっとその頃までが限度だと想定して、リーアムたちも外に出したのだと考えられる。

 その猶予が半年。まだそれだけ彼女の寿命があるのだろうと思えたが、先代の例で考えてしまえば、アイリーンの残り時間はそこまで長くないと考えられた。

 呪われた樹海だ。

 再び足を踏み入れた瞬間に、アイリーンの命を一瞬で喰い尽くす事も考えられる。自分だって二度目はどうなるか分からない。なので彼女を樹海には戻さない方が良いだろうと思う。

 しかし、全ての鍵はやはりあの中にあるのだ。

 ジア・ル・トー。誰も近付けないその領域、夜を司る精霊たち……。

 目にしただけで命を吸い取られるだの言うくらいなので、まともに対峙すれば命はないだろう。

 仮に話が通じる存在だとしても、自分も彼女もきっと、ただでは済まない筈だ。飛行二輪で散々に纏わり付いてきた風の精霊の事を思えば、もっと恐ろしい目に遭う事は容易く想像できる。

 果たして、自分たちが望む明るい未来へ向かえる率はどれくらいだろうか。ジャスパーの肩は畏怖に震えた。

(……弱気になるな。冷静に分析しろ)

 俺自身が諦めるな。と、自らを鼓舞して自室へと戻ろうとした矢先だった。

 背後からパタパタと忙しない足音が聞こえてきた。自然とそちらに顔を向けるが、ジャスパーは思考が止まる。

 サーシャだった。その顔は涙でくしゃくしゃに濡れており、見るからに尋常な様子ではない。

「おい」

 何事か。さすがに見過ごす訳にはいかず、腕を掴むとサーシャは目を丸く開いて唇を歪ませる。

「やめて、同じ事をしないで!」

「え?」

 どういう事だ。同じ事とは……。

 ジャスパーは眉を寄せるが、彼女は逃げようと必死に腕を振り解こうとする。しかし、力で勝てない事を悟ったのか、暫くして彼女は抵抗を諦めて俯いた。

「……お願いだから離してよ! こんな惨たらしい顔は誰にも見られたくないわ!」

「見てねぇよ。ただな、誰かが泣いてりゃ何事かって思うのが人として普通だ。良い男はな、意中でもない女が泣いていたとしても声はかけるもんだ。まぁ、そんだけ喋れりゃ大丈夫だろな。とりあえずほら、これ持ってけよ」

 そう言ってジャスパーはジレの内ポケットからハンカチーフを取り出すとサーシャの開いた片手に握らせる。

 解放してやるなり彼女は、無言で走り去って行った。

 しかしあの小憎たらしい彼女が、泣き顔を見せるとは何事か。

 ジャスパーは彼女の去った方をしばし眺めた後、ゆっくりと自室へ戻った。

 しかし部屋に戻って、隣部屋を覗いてもアイリーンいない事に嫌な予感がした。

 考えなくても、先程のサーシャとどことなく結び付く。

 今日の会合は丁度サーシャとアイリーンの二人だけいなかった。

 ヴァラにはなるべくアイリーンの様子を見ているようにとは言ったが、年中付きっきりという訳にもいかない。

 そんなアイリーンのお気に入りの場所と言えば庭園だ。

 なにせ「グウィン」と名付けていた伝書鳩がいる鳥小屋もある。それに花々に癒やされるとの事で彼女はあの庭をとても気に入っていた。

 サーシャとて客人扱いなので屋敷の中では自由にさせている。

 恐らく、運悪く鉢合わせてしまったのだろう。と、いうと……アイリーンも尚、どこかで泣いている気がして、ジャスパーは急ぎきびすを返した。

 渡り廊下を経て、蔓薔薇のアーチが連なる庭園に赴く事暫く。最果てに佇む東屋に探していた姿は見つかった。

「夕飯になる。アイリーン、部屋に戻るぞ?」

 俯き震える彼女の肩を撫でた途端だった。アイリーンはジャスパーの胸に飛び込み幼子のよう声をあげて泣き始める。

「……サーシャの事だろ。さっき会った。詳しく分からないが、あいつが泣く程ってアイリーンにしては頑張って言い返せたんじゃねぇの?」

 しかし彼女は首を横に振り乱し「心が痛い」と嗚咽まじりに言う。

「そりゃそうだ。心ある人間なら、傷付けるのも傷付くのも同じくらい痛い。でも、これでようやくおあいこじゃないのか?」

 アイリーンの事だ。容赦のない言い方をしたとは到底思えない。

 むしろあの日サーシャに言われた暴言の方が余程酷い気がして仕方ない。

「それでも……」

「じゃあ、いつか……自分が悪かったなって思った事だけアイリーンから謝ればいいと思う。こういうのって謝ったもん勝ちだしな。それか、あえて気付きを与えてくれた事にお礼でも言ってやれ」

 ──相手も泣く。泣く程の感情を突き動かされたという事は、彼女はアイリーンを憎んでいようが無関心ではないと分かる。

 嫌いで憎いだけであれば、時間はかかろうが綻びの修繕はできるだろうと思えてしまった。

 そうしてジャスパーがアイリーンの背を摩る事、いくばくか。

 少しずつ落ち着きを取り戻したのか、彼女はゆるやかに涙で濡れた顔を上げた。

「酷でぇ顔……」

 泣き顔を見るのはもう何度目になるだろうか。やはり何度見たって彼女の泣き顔は稚く見えてしまいよくを掻き立てる。

 自分の手は錆独特のガサガサとした感触だ。傷付けてしまうのでグローブは外せない。本当ならば涙を拭ってあげたいが、できないので代わりに唇を寄せて涙を舐めるとほんの少し塩辛い味が唇の中に染みこんだ。

 涙を舐めたのが、気恥ずかしかったのだろう。

 腕の中のアイリーンはこそばゆそうにした後、ゆるやかに唇を開いた。

「ジャスパーありがと、だけどね……私、不安なの」

「何がだ?」

「先が見えない事が怖いの。ジャスパーが言うように……諦めるつもりはないけど、本当に呪いが解けるのかなって、不安になる。それでも、リーアムもサーシャだって犠牲にしたくない。我が儘かもしれないけど、幸せだって思えたから生きていたい」

 ……誰かを不幸にする女神なんかもうやめたい。来年も再来年もずっとジャスパーの傍にいたい。

 彼女の語る言葉と悲痛な表情はジャスパーの心を抉る。

 残された時間がどれくらいあるのかは分からない。真実は伝えた方が良いのか。いいや、伝えられる訳がない。

 救いたい。自分たちが生きる未来が欲しくて堪らない。

 けれど希望が殆ど見えないのだ。

 今の彼女にこれを伝えてしまえば、砂のように崩れてしまいそうな畏怖を感じた。ジャスパーは喉の奥に滞った言葉を飲み込み、更にきつくアイリーンを抱き寄せた。

「約束してくれ。何としてでも、生きる事を諦めないでくれ。来年だって再来年だってその先も必ず俺はアイリーンの傍にいるつもりだ」

 ──ずっと一緒にいよう、約束だ。

 そう告げて、ジャスパーは彼女の小指を自分の指にやんわりと絡めた。

 果たせる確立はいかほどか。限りなく夢物語のような気もしてしまう。

 そして自分がいまだに何も成し遂げられていない事に腹が立って仕方ない。

 絡めた小指と解くと、ジャスパーはアイリーンの手を取って結晶に侵食された手の甲に誓うように口付けを落とした。

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