32 心通わすその力
厄災の境目──女神の慈悲とも呼ばれるこの地はとてつもなく長閑だった。
晴天の下、広大な牧草地帯は流れる時間が緩やかに感じられた。
丸太橋の上から見た小川は意外にも水量が多く、こぽこぽと優しい水音を奏でている。水面には陽光が踊り、はっきりとその姿が目視できないものの、水の精霊たちが確かにそこにいる気配が伺える。
それに、アイリーンの耳の届く家畜たちの会話はどれもこれも穏やかだった。
「私、鳥の会話は聞き取れるし意思疎通できるけど……まさか、あんな大きな動物たちの会話も聞き取れるとは思わなかったわ……」
アイリーンは遠くで群れをなす牛たちを見て不思議そうな顔をする。隣でジャスパーは少し驚いた顔をした。
「それマジだったんだ……」
「あら、信じてなかったの?」
「動物の声が分かるのは半信半疑だった。で、あいつら何を言っているんだ?」
「ん……そっちの草はいまいち。こちら側の草は日当たりが良い所為かとても柔らかくて美味しいとか。あと、私の坊やが……って子どもの話かしら? でも、不思議ね。ここにいるあの動物たちは皆メスみたいだわ」
「凄いなその能力……。確かに、ここらの牛は全部乳牛だからメスしかいない」
「そうなのね……でも普通に会話として聞こえてくるだけの。鳴き声に混ざって穏やかなご婦人たちの声が届くのよ」
そんな風に説明した後、アイリーンはふと彼の能力についても思い出した。
「そういえばジャスパーは、会話はできなくとも従わせる事はできるのでしょ?」
「ああ、まぁ……そうだな」
見たい。純粋な興味で彼を射貫けば、言わんとした事を察したのか、ジャスパーは牧場の囲い柵に向かって行く。
「おい。お嬢さん方、俺の声が聞こえてくるか? ちょとこっちに来い」
そう呼びかけた途端だった。牛たちはピタリと会話を止めて、一斉にジャスパーの方を向いたかと思えば、ゆったり近付いて来た。
『あら、お嬢さんだなんて、嬉しい呼ばれ方ね』
『なになに……見かけた事もない人間のお嬢さんと男の人ね』
『でも不思議よ? 人間は私たちの言葉が通じない筈でしょう?』
『でも理解できたわ。こっちに来いって』
集まった牛たちは全てで四頭。彼女たちは柵越しの至近距離まで来ると、どこか困惑した面持ちでアイリーンとジャスパーをそれぞれ見た。
「悪いな、俺の声はあんたたちに一方的に届くが、俺には響かない。ただな、折角通りがかったから、少しばかり世間話の相手になって貰おうと思ってな。この子があんたたちの言葉が分かる。普通に意思疎通できると思う」
そう言って、ジャスパーがアイリーンに目配せをすると、牛たちは皆一斉にアイリーンに注目した。
『あら……お嬢さんは私たちの声が聞こえるの?』
「ええ、分かりますよ。初めまして」
アイリーンはスカートの裾を摘まんで軽く会釈する。
『あら愛らしいご挨拶ありがとう。でも、待って。私たちの会話が分かるって事は……あなたが石の樹海の女神様?』
的確に言い当てられてアイリーンは目を丸く。
『確か……名前はアイレーンだっけ』
『いいえ、アイシーンじゃなかったかしら?』
「惜しいけど違います。アイリーンですよ」
そう答えると『ああ……リーンなのね!』と、それぞれがどことなくスッキリしたような顔をする。
「え……でもどうして……」
侵食が顔面にまで現れたこの見てくれだ。牛でもこの異形から女神と分かるのだろう。しかし名前まで……。
不思議に思って訊けば彼女らは穏やかな笑いを溢す。
『どうして? あなたグウィンって白い鳩の知り合いがいるでしょう?』
『あの鳩はこの牧場を休憩地点にしているの。変わり者のご主人様が手紙を届けに欲しいって頼むらしいじゃない? その帰りによく寄るの。……ん、って事は』
牛たちは一斉にジャスパーを見て『この人が変わり者のご主人様?』と訊く。
「ええ、そうよ。グウィンの主人のジャスパーよ」
説明すれば『これが……』『人の癖に鳥のように空を飛ぶ……』と彼女たちは好奇の目でジャスパーを見つめた。
何と言われているかは分からなくとも、自分の話題は照れくさいのだろうか。ジャスパーは少しばかり居心地が悪そうに視線を逸らして遠くを見つめていた。
『人間のオスの美醜は分からないけど……彼、なかなか背が高いわね。何だか鷹とか猛禽類みたい』
『アイリーンはリスみたいだから、いかにも捕食されちゃう側みたいよね』
……思えばリスとはジャスパーにも言われた事はあった。しかし捕食とは。ジャスパーに食べられるなんて事はある筈ない。
『だけど、アイリーンは石の樹海の女神様でしょう? 樹海から出て彼と一緒にいるって、グウィンの所のご主人様とつがいになったって事でしょ。だって、グウィンが言っていたもの。二人はきっと惹かれ合っているって』
『そういう事よね。あなたたちさすがにもう交尾しているでしょ? きっと可愛い子どもが生まれるんじゃないかしら?』
なぜそうなる。アイリーンは頬を真っ赤染めて、ぷるぷると首を横に振る。
「まって、話が飛び過ぎよ……私ジャスパーと交尾なんてしてないわ!」
そう発言した途端、隣のジャスパーはぎょっとしてアイリーンを見下ろした。
「おい。ちょっとまて、何を訊かれたんだ……」
「つがい、になったの? もう……その、そういう事したんでしょ? そのうち可愛い子どもが生まれるんじゃ……って」
言われたままを言うと、ジャスパーは真顔で固まるが直後「解散! 撤収!」と呼びかけると、アイリーンの手を掴んで足早に歩み出す。
『あらあら、もう行っちゃうの?』
牛は少し寂しげに言うので、悪意ある質問だった訳でないとは分かる。
アイリーンは真っ赤になったまま控えめに手を振った。
「……あ、あの。ジャスパー」
彼に恥をかかせてしまったかもしれない。心配になって呼ぶと、彼は繋いだ手をぎゅっと握り返す。
「相手が悪かったな。乳牛だから多分、そういう思考かもな……」
──雌牛はミルクを出す為に、産まれて二年もすれば子を作り、出産と妊娠を毎年繰り返す。それが乳牛にとっての当たり前。その価値観での発言だろう。
ジャスパーは極めて淡々と説明するが、彼の耳は後ろからでも真っ赤に染まっている事はよく分かった。
好きだとは言われたが、まだキスだけ。
それでも、この様子では彼が自分をそういう対象に見ていると理解できて、無性に恥ずかしく思った。