31 女神の慈悲
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その日の昼下がり。アイリーンはジャスパーに誘われて外に出た。
「ねぇ、ジャスパー。今日はどこに連れてってくれるの?」
そう訊くと「屋敷近辺でもブラブラしようかと」と、ジャスパーは軽く答えた。
「飛行二輪に乗らないなら、顔が隠れる装束に着替えに戻った方が……」
人目につくのはまずい。それを言おうとするが、彼はごく自然にアイリーンの手を絡め取るように繋ぎ合わせた。
「上空から見て、この近辺の田舎加減はもう分かっているだろ? 近辺は農地ばかり。人なんてそうそう会わないから平気だ」
──その服、似合ってる。可愛いからそのままがいい。と、少し照れくさそうに付け添えて。彼はアイリーンの手を握り、ゆるやかに歩み始めた。
門を抜けるとゆるやかな坂道となり、その周囲は高々とした針葉樹がひしめくように
木々の隙間から陽光は落ちているものの、空気は少しひんやりとしており、敷かれた石畳は少し湿っている。岩場には苔が生しており、精霊の気配を感じられる。
しかし、飛行二輪の移動の印象が強くなっているので、こうして手を繋いで歩くのはやはり新鮮だ。いつも彼の広い背中に必死にしがみついているので、横顔を見る事は滅多にない。こうして彼の横顔を見るのも何だか貴重だった。
改めて思うが彼は背が高い。
脚の長さは自分の腰を超える程あるだろうか。それに繋いだ手は手袋越しからでも分かる程骨張っており大きい。
そんな部分から、違う性別なのだと認識して照れくさい気持ちになった。
……今なら素直に思う。
ジャスパーは様々な表情を持つステキな人だ。
こんな彼を好きになれた事だけで感無量だった。
キスはもう何度かした。この手に抱き締められて眠った事もあった。涙を掬うように拭われ髪を撫でられた事もあった。短期間ではあるが関係性の進展は目まぐるしく早く濃密だと今更のように思う。
何だか気恥ずかしいが、幸せで堪らない。
しかしジッと見過ぎてしまった所為か、彼は少し居心地の悪そうな顔をする。
「……で、アイリーンは何を熱心に俺を見ているんだ?」
「ううん……なんでも!」
まさか指摘されると思わなかったので声が裏返ってしまった。それが面白かったのだろう。彼は喉を鳴らして笑う。
こんな場面を誰かに見られていたら恥ずかしくて、いたたまれない。屋敷はまだ背後に見えている。いくらジャスパーと打ち解けつつあるとはいえ、堅物なリーアムが見ていたら非難されるに違いない。
それに、彼の従者ヒューゴーに関してもそうだ。
夜の砂浜から帰った際の呆れ顔が今も尚、鮮明に残っている。
咎められやしなかったが、やはり夫婦関係を結んでもいない男女がこうも近い距離でいる事や一夜をともにするのは良くない事だろうと、世間知らずなアイリーンでもどことなく理解できる。
こういった事に寛容そうなのは放任主義のサーシャくらいだろうか。
しかし、彼女の存在を思い出せば自然と悲しい気持ちが押し寄せる。
(そうだ、サーシャは私の事が……)
当たり前のように彼女の視線を考えてしまったが、サーシャは自分を嫌っている。
気さくに友達のように振る舞ってくれた事も、笑いかけてくれた事も全てが嘘。
文句を言いつつも丁寧に髪の手入れをしてくれたが、彼女の腹の中は常に恨みで煮えていた。
あの告白から二ヶ月。
いい加減に慣れろ、認めろとは思うが、今も尚信じたくない気持ちはあった。
恋に浮かれている場合でない。それは百も承知だが、それでもこの件は幾度考えても自分が全て悪いとは思えなかった。
『私は私として生まれた事を後悔している』と言われたって、どうする事もできない。
「ねぇ、ジャスパー。ほんの少しだけ相談に乗ってくれないかしら?」
歩んだまま、ぼんやりとアイリーンが尋ねると、彼は「何だ」と穏やかに答えた。
「私……嬉しい時、嬉しいって素直に喜んで良いのかな。幸せだと思ったら幸せだって笑っていたって良いのかしら」
そう訊くと、彼は繋いだ手の力を少し強めて──「当たり前だろ」と即答した。
「アイリーンは難しく考え過ぎだ。誰が何を言おうが、感じた事に対して文句を言う筋合いはない。それで文句を言うのはただの八つ当たりだ」
──サーシャの事でも思い出したのか。と、速攻で核心を突かれた。
おどおどと頷くと、立ち止まった彼は深い吐息をつく。
「多分、アイリーンは必要以上の罪悪感を常に背負っていると思う。自分の感情は素直に全部受け入れてやれ。その思いが正しいか正しくないかなんて判別しなくていい。まずは自分の感情を受け入れてやらんと。それになサーシャ自身が
──行き場のない怒りをぶつけるには、立場の弱い人間を叩くのが一番丁度良い。心根の弱い人間ほど他人に責任転嫁する。
そう付け添えて彼は、再びゆったりと歩み出した。
しかし、あのサーシャが弱い人間とは思えない。むしろ、自分のように世間知らずの泣き虫で何もできない人間の方が余程弱そうだが……。
──変だ。と、そんな事を考えている最中だった。
「アイリーンは今、俺と過ごしていてどう思う?」
突拍子もなく訊かれて、アイリーンは目をしばたたく。
「どうって?」
「思ったまま素直に言ってみな」
「……その、ジャスパーと過ごせるのは、楽しくて幸せよ。私、ずっとこのままがいいのにって思っちゃう」
「嬉しい事言ってくれるじゃん。つまり俺アイリーンにすげぇ好かれてるって事だな。じゃあ感じたまま、ずっとそう思っていてくれよ?」
優しくに笑う彼に頷いて間もなく。鬱蒼とした雑木林を抜けた。
目に飛び込んでくるのは淡い緑に埋め尽くされた大地。白い毛並みの動物たちが群れになって動いているのが見えた。
絵に描いたような牧歌的な光景だが、優しくも強かな生命力を感じられる。
アイリーンは息を飲み、この景色に感嘆とした。
窓の外から毎日見えていた景色に違いないが、こうも近くで見ると違う。星空も海も鉱山だって美しかったが、それとは違う感動があった。
「ま。何もない田舎だけどな……ギオケルメ最北端、〝厄災の境目〟だとか〝女神の慈悲〟だの言われているらしい」
ジャスパーはそんな風に言って軽く笑む。視線を向ける先には上空に灰色の雲と霧ベールを纏った剣山の如き巨大クリスタルの群生が見える。
以前聞いていたが、本当に近い……石英樹海だ。
「本当に近いのね……でも不思議、飛行二輪で出掛ける時は見えないのに」
「ああ。それは……飛行二輪の後ろに乗ってりゃ俺の背中に隠れて前は
「晴れている」と彼は言うが、空は晴天と曇天で真っ二つだった。
その光景は樹海内部で見る空と全く違う。
まるで雲と霧は壁のよう。
──来る者を拒み、全てを包み隠して飲み込んでしまう。
その言葉は伊達でないだろうと思える程。よくぞ彼と先代の錆の王子はこんな場所に飛び込んだものだとアイリーンは改めて思ってしまった。
「ジャスパーって怖いものがないのかしら。勇敢。いいえ命知らずなのかしら……」
それで言わんとしている事を理解したのだろう。
「そうでもないぞ」と彼は笑い混じに言った。