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湖を飛び越えて間もなく夜は訪れる。いつの間にか青い霧が立ち込め雲の切れ目からクリスタルに似た銀の月が覗き、儚い光が僅かに溢れていた。
神殿を発ってからからというものの、酷い破壊衝動で自我を消え飛びそうだった。それもその筈。女神とは厄災そのもの。夜の者に滅びの力を得ているのだ。
だが、数々の幻聴が響くお陰でぎりぎりのところで自我を保っていられた。今は頭が割れそうな程の頭痛を感じる事もない。水面に映った他人の記憶でも見ているかのように非常に穏やかなものだった。
頭の中にぼんやりと浮かぶ少女たちの姿はどことなく既視感がある。
──燃えるように赤い髪の少女は、明るい笑顔が似合う快活な娘だった。すらりと背も高く、その姿は麗しい。薔薇色の瞳は爛々と輝き人を惹きつけ魅了する。ハキハキとした口調で喋りよく笑う。
まさに神殿の中心で花。司祭や神官たちからも愛される素晴らしい女神だった。
その名はアデレード、美しき二代目の女神だった。
──灰色髪の少女は小柄で髪も短くどこか中性的な雰囲気だった。しかし、頭の回転が速く聡明。
そして先々や物事全てを見通す神秘の際を持つ天才。神殿の者たち誰もが一目置く女神だった。
その名はフローレンス、聡き三代目の女神だった。
そう……二人の成れの果てとは、以前祈りの間で会っている。自分はこれから彼女らも取り込むのだ。その時が刻一刻迫ってきた所為か彼女たちの事が分かってくる。
「……汝、岩の如き硬く砕けぬ心を持て」
手紙の中に何度も書かれていた言葉を呟きアイリーンは真っ直ぐに自分が向かう先を見つめる。
随分と広がった虹彩は薔薇色に光り輝いていた。僅かな強膜は闇のように黒く染まり始め、人の片鱗はすっかり失い始めていた。
手足を覆い尽くす
──果たして自分は、岩の如き硬く砕けぬ心を持てたのだろうか。
今となっては不明だが、自分なりに考えて努力はできたとアイリーンは
(ジャスパー……)
もう一度会いたかった。元の関係に戻れなくてもいいから、やるなと言った事を言えずに隠して来た事を、きちんと謝りたかった。
アイリーンは彼と過ごした数ヶ月を一つ一つ思い出した。
──ジャスパー。
私、あなたに出逢えた事に心がいっぱいなの。あなたは私に外の世界を見せてくれた。たくさんの幸せを教えくれて、感謝しても仕切れないわ。
初めは半信半疑だったけれど、確かに、あなたは私にとっての運命の相手だった。
ううん、どちらかというとあなたは最初の女神の犠牲者。
生まれ変わるあなたを追って私たち女神は魂を千切って同じ時代に生まれくる。そして必ず惹かれ合う宿命だった。
こんなの、どう謝って良いか分からない。
だけど私が完全に統合され、魂そのものが消滅すればあなたの呪いは完全に断ち切れる筈。
そうしたら、できるだけ長く生きて。どうか幸せになって欲しいわ。
あなたの手を取ったけど、約束を果たせなくてごめんなさい。
だけど、あなたの気持ちは変わった。
だから、きっと大丈夫よね。あなたは前を向いて生きていける筈。
それでもきちんと、さよならとありがとうを言いたかったな。
本当にね、普通の女の子みたいになれたのとっても嬉しかった。
あなたを愛していた。
たとえ魂そのものに刻まれた宿命だとしても、私はあなたを愛せた事が何よりも幸せだった。
届く筈もない気持ちを唱えて間もなく、約束の地は目の前に迫ってきた。
降り立ったジア・ル・トーは濃厚な青い夜霧に包まれていた。
崩れた塔の上でアイリーンは金の杖を曇天に向かって掲げる。
「……天よ、我が為に開きなさい。八百年望んだ、終わる夢を始めるわ」
祈るように唱えると塔の上空に暗い紫の幾何学模様が走り、幾重もの円を描き紋章が輝く。そして開かれる天へと続く扉──アイリーンは瞼を伏せるとすぐ、シャーロットがこちらに向かって歩んできた。
「アイリーン、本当に来てくれたんだ……」
「うん。だって、これで全てが終わるのだから……」
「私の所為で本当にごめんなさい」
相変わらずの調子で謝る彼女は、薔薇色の光となり、自分の身体の中にスゥと溶けるように入り込む。その途端──胸の奥が酷く熱くなった。
全身に駆け巡るのは身を裂かれるような痛み。
酷い頭痛に耳鳴り。堪えきれない破壊衝動にアイリーンは身を震わせ、声にならぬ叫びをあげた。
グラグラと地面は大きく揺れ、途端に新たな巨大クリスタルが自分を中心に放射線を描くよう地中から生え始める。
────壊したい、こんな汚い世界、壊れてしまえ。リグ・ティーナを許さない。お父様、お母様……私の愛した全てを返してよ。
シャーロットの呪詛めいた声で自我は次第に薄れ行く。アイリーンは大きく杖を振り翳すが、突如として背に激しい衝撃と痛みを感じた。
「あ……ぁ、あ……」
何事か。僅かに自我を取り戻し、後ろを向くと、ギョロギョロとした大きな目玉と目が合った。
夜の者の口にはクリスタルの翅。咀嚼すればボロボロと音を立てて崩れ、光となり爆ぜるように消えていく。
片翅を失った背が燃えるように熱い。
目の前は真っ赤に染まり、脳裏に悲痛な少女の叫びが幾重も重なり反響する。アイリーンはとうとう精神を蝕まれ理性を失った。
その有様は〝人間だった〟と呼ぶにはあまりに惨たらしい。
薔薇色に光る瞳はギラギラとした怪しい輝きを持ち、甲高い金切り声をあげれば、そこら中に新たなクリスタルを生み出す。
そんな彼女の周囲──地面の中、空中から夥しい黒い大蛇が現れた。それは藻掻き狂うアイリーンを這い、ぎっちりと拘束し夜空に縫い止める。
『さぁ望みを言ってごらん。二度と王子様に巡り会う事もない完全なる消滅。君はその結末を望んでいるんだよね?』
訊かれるが、アイリーンは甲高く叫ぶばかり。もはやその瞳に揺らぐ意思は破壊衝動だけで周りなどもう見えていなかった。
『あ~あ。言葉も失っちゃったのか。けれど、これは君が望んだ破滅。当然自我も破壊される。念が強いほど願いは叶いやすいとは言うけどさ。恨みや恐怖って負の感情は最高の起爆剤。結果とんでもないモノが出来上がった。昔の聖職者って神の力を授かっていたけど、よくぞこんな
やれやれといったそぶりで、夜の者は首を傾げる。
『仕方ないな……君の望みはしっかり訊いていたから、叶えてあげるよ。折角だから君の事、仲間たちと一緒に頂くね』
夜の者は顔を上げる。すると、開かれた天の門から、似たり寄ったりの不気味な姿の怪物たちが次々と姿を現した。
それと同時だった。
喧しい轟音と風が過ぎ去り。途端に響く爆破音。ジア・ル・トーの頂点で赤々とした炎が燃え上がり、焦げた臭いが充満する。
寄せ集まった夜の者たちは何だ何だと目を細めてその炎を見つめて間もなく。姿を現したのは、こちらもまた人間と呼んで良いかも分からない程、惨めな姿になり果てた青年だった。