目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
46 厄災の始まり

 アイリーンに対する記憶が全てを開放されたからだろうか。或いは晩期を迎えて不思議な力で干渉しているからか。不思議と彼女の心が伝わってくるのだ。

 彼女の意思は『終わらせる事』のただ一つ。その意味が正しければこの歴史を終わらせる為に、彼女は自らの意思で消滅を計ろうとしている。

(あんたは厄災として、自分の宿命に逆らうのね……)

 急ぎ階段を上るが息が上がってきた。途中で後ろから追いかける音に気付き、間もなく追い付かれた。

「主の元へ行くぞ!」

 案の定リーアムだ。彼はサーシャの手を掴むように固く握りしめると、引っ張るように階段を駆け上る。

 きっと彼も心の鍵を外されたのだろう。堅物そうな顔はそのままだが、どこか懐かしい柔らかな笑みがあった。

 ああ。この顔が好きだった。基本的には馬鹿みたいに真面目だが、面倒見が良い。それでいて自分にもアイリーンにも平等に優しさを与えてくれた。

 ほんの少し胸の中がじんわりと熱くなって泣きそうになる。好きだった、やっぱ好きだなと。胸の内に封じられていた様々な思いが込み上げる。

「私、あんたの片割れで良かった。ありがとうリーアム」

 素直な言葉にすると、彼は少し驚いた顔をして僅かに振り向いた。

「天邪鬼なサーシャが珍しい。夏だけど明日は大雪が降るかもしれないな」

 ──でも、ありがとう。僕の方こそ。そう付け添えて、リーアムは更にきつく強く手を握りしめた。

 これから恐らく始まるのはおぞましい事。

 それでも、彼女の決意を曲げてはならない。それが従者として……幼馴染みとしての本当に最後の務めとなるだろう。

 ようやく女神の部屋に辿り着き、室内に踏み入れば、アイリーンは静かに眠ったまま。しかし、彼女を蝕む薔薇色の結晶は薄い光を放っていた。

「アイリーン! 起きなさい。目を覚まして!」

「アイリーン様、目を覚ましてください!」

 二人の呼びかけに答えるよう。アイリーンの瞼は微かに動く。

「私……鈍臭いあんたが憎たらしくて大嫌いよ! だけど、同じくらい愛おしくて仕方なかった」

 あの日、精霊術士に捕まった時、彼女の前で手を広げて出て「サーシャもリーアムも悪くない。従者が死ぬ必要なんてどこにもないでしょ」と泣いてくれた。

「贄なんか要らない」

「女神もやめたい、誰も傷付けたくない。やめられないなら私を殺してよ」

そう泣き叫んだアイリーンの姿が映る。

 ──ああ、だからだ。あの日、彼女が同じ事を言った時、箱の中にしまわれた感情が酷くざわめいたのだ。

 それが不快だった。叶う訳がない。できる訳がない。

 過去に同じ事を言ってダメだったじゃないか。伏せられた感情の中で自分は、とてつもなく、もどかしくて悔しい気持ちでいっぱいだった。

 今となってはそれが分かり、サーシャの瞳には止め処なく涙が溢れる。

「起きなさいよ馬鹿女神! あんたがやろうとしている事はだいたい伝わっている。私たちは共犯者として責任を取ってあげる! やりたいようにしなさい!」

 叫んだ途端、アイリーンの瞼はゆるやかに開き始めた。

 室内いっぱいに薔薇色の光が満ち溢れる。開いた窓から風はそよそよと入り、無惨に破られたベールを揺らす。

 ゆるやかに起き上がる彼女はサーシャとリーアムを交互に見つめて柔らかく笑む。

「サーシャ、リーアム……ありがとう。鏡と剣を託して?」

 そう言って立ち上がった彼女に、二人は従いそれぞれを渡す。

 彼女がそれを手にした途端──二つは眩い金の光となり混じり合うと、金の杖と変わった。

「ありがとう。二人とも……いっぱい嫌な思いさせてごめんなさい」

 そう告げた彼女は、自分たちの知る女神、アイリーンでなくなり始めた。

 ──白の女神装束は幽霊水晶ファントムクォーツのような儚げな色彩のドレスに。氷のように透き通った水晶の靴に煌びやかな金の腰飾り。もはやその姿は麗しき姫君のよう。

 しかしだ。耳は尖り、虹彩は異様に広がり決して人間的ではない。その姿は自然霊側──妖精そのものだった。

 厄災とはうら若き娘の姿をしている。

 語られる厄災の一文がサーシャの頭に過った。

 しかしあまりに可憐で、儚く……どこか侘しさを感じる姿だと思った。

 その途端だった。

「何事か!」

 部屋に踏み入る神官たち。そして司祭はアイリーンの姿を見るなりに顔を青くする。

「これはどういう事だ! なぜにこのような……貴様どもは女神の贄としての使命を放棄して厄災を選ばせたというのか。あの精霊術士の仕業か……」

 嗚呼。と、司祭は絶望を口にするがアイリーンは司祭に向けて金の杖を突き付ける。

「いいえ、全て私が選んだ事。しかしここは以外は踏み入れてはならぬ私室。あなた方に無断で踏み入る許可を与えた覚えはない」

 その言葉も口調も後半にいくに連れてアイリーンのものではないようだった。

「よく聞け──我こそ晶の女神、四代目アイリーン。今こそ我が従者を運命の輪から断ち切る。贄など必要ない。無益な殺生をこの代でも強いるなら──貴様どもを殺してやる」

 アイリーン……否、晶の女神は杖を手に取りおごそかに告げる。

 司祭たちは青白くなり彼女を見つめる。その瞳の中には絶望、そして畏怖が強く揺れ動いていた。中にはその場で座り込み、命乞いするように祈る者まで。

 しかし彼女はそんな様子を気にも留めずバルコニーに出た。

「私はジア・ル・トーに向かいます。東に逃げなさい。できるだけ遠くに」

 振り向きもせず、そう告げた彼女の背から金の光の幾何学模様が流れるように走る。それは瞬く間にクリスタルの翅に変わり、薔薇色に色付いた。

 翅を広げ飛び立とうとするアイリーンにサーシャはとつに声をかける。

「……アイリーン。数年前のあの時、ありがとう」

 精霊術士から庇ってくれた過去。お互いその記憶が欠けても尚、慕ってくれた事。友達だと言った事。様々な思いが過り、サーシャの瞳には涙が後から後から伝う。

 今まさに飛び立とうとする女神は僅かに振り返り、〝彼女〟の面影の残る幼い笑顔を向けた。

「いいえ。私はずっとサーシャに嫌な思いばかりさせてきた。ごめんね。でも、傍にいてくれてありがとう。私が私であるうちにお礼言えてよかった……ねぇ、リーアム。私の事はもう大丈夫だから、サーシャの事を守ってあげてね」

「御意に」

 いつの間に隣に来たのだろう。リーアムは膝をつき、アイリーンに深く頭を垂れた。

「〝さよなら〟は寂しいから〝行ってきます〟って言わせてね」

 最後に少し悲しげに笑んで彼女は、暮れる空へ飛び立って行った。

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?