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石英樹海への帰還は随分と唐突に訪れた。
この所、体調が悪かったらしいアイリーンがとうとう昏睡状態になった。それから間もなく、公爵の前に現れたのは〝神殿の裏方〟と名乗る女。
彼女は従者を引き連れて即刻の帰還を伝えたそうだ。
神秘の力──精霊を使役する〝裏方〟がいるのは一応存じている。
つまりは外に出た所で監視の目が行き届いているとよく分かったので、もう逃げようもない。神託で決まった宿命はやはり変わらなかった。サーシャはふてぶてしく要求に従った。
アイリーンを最後に見たのはたった三週間前──薔薇の咲き乱れる庭園の東屋の中だった。
あの時の彼女は、纏っている衣服こそ変わうが特に外見的に変わった様子がなく顔色も良かった。それどころか生意気にも言い返してきたのだ。
瞳には明るい光が宿っており、本当にあのアイリーンなのかとサーシャは気圧された程だった。
しかし、今の彼女は死体のように青白かった。
薔薇色の結晶による侵食はあの日と比べものにならない程に広がり、首や胸元の侵食を見るからに心臓までの到達まであと僅かと伺える。彼女を食い潰すのは時間の問題だ。しかし妙に彼女から神聖な雰囲気と
これが本当に、泣き虫でグズグズとしていて何もできないアイリーンかと思う程。ただ眠っているからだけではない。彼女の纏う空気に明らかな変化を伺える。
ただの何もできない愚図な女から、本当の女神になろうとしているかのよう──その様は、静かに羽化を待つ蛹のように思えた。
憎くて堪らない相手だ。サーシャからすればアイリーンがいつ死のうがどうだって良いが、今の彼女を見るとどうにも胸の奥が突っかかるのだ。
それに拍車をかけたのは、ここでの暮らしで彼女の世話をしていた初老の女使用人の存在だった。
アイリーンを馬車に乗せる前。彼女は何度も横たわるアイリーンの頬を撫でて涙を流していた。
こんな疫病神でも娘のように可愛かったのだろうか。
(確か彼女……ヴァラといったかしら)
初老の使用人に目をやると、視線に気付いたのか彼女に声をかけられた。
『ジャスパー様から止められた事もあり、私はお供できません。どうかサーシャ様。アイリーン様のお側にいてあげてください』と。
どう答えて良いかも分からないが、帰る事に腹を括っているので、サーシャはとりあえず頷いた。
『アイリーン様は……サーシャ様が好きだったと私に話してくださりました。拒絶されても思い出だけは忘れられないとおっしゃりました』
グズグズしていれば呆れた顔で睨まれるが、いつも優しく髪を梳かしてくれた事、召し物を着せるのを手伝ってくれた事。それが本当に心地良かった事。
この立場でなければ、関わる事もなければ親しくなる事もきっとなかっただろう。
むしろ、あんな事実があるなら嫌って当然。
どんなに謝っても許される筈がない──と、そんな風にアイリーンは自分との関係性を語っていたらしい。
その言葉にサーシャの心は僅かに揺れた。
憎悪は消えないが、それでも自分の心の中にはそれ以外の感情がいくらかある。一つだけ分かるのは憐憫だが──それ以外はまだ不明。
否、遠い昔はその感情を分かっていた気がする。まるで鍵のかかって開かない箱を前にするような感覚に似ているだろう。
そして今現在、アイリーンは石英樹海の女神の部屋に戻ってきた。
白一色の部屋──天蓋のベールの引き千切られた寝台の上で眠る彼女は、廃墟の城で永遠の眠りにつく姫君のようだった。
帰還から一日。彼女は相変わらず目を覚まさないが穏やかな寝顔を浮かべていた。
しっかりと息をしているし、脈もある。だが昨日より侵食範囲が広がった気がする。
アイリーンの侵食はよくぞこの程度に済んだと思う。
彼女の対──錆の王子はより悲惨な事になってしまったからだ。
馬車が石英樹海に踏み入れた途端に、彼が悶え苦しみ侵食はたちまち広がった。首筋から頬、目尻にかけて金属化したかと思えば、枯れ色に腐食し始めたのだ。
「熱い痛い」と叫び、目を押さえて呻く彼をリーアムは必死に介抱した。
馬車も止め、ヒューゴーにもただちに見て貰い──ややあって落ち着いたが、誰もが彼の面を見て強ばった。
均整の取れた原形こそあれど、その半顔はあまりに無惨だった。
血の涙を流す片目の虹彩の中に錆び付いた金属片のようなものが透けて見えた。皮膚を覆うガサガサとした錆は酷く醜くおぞましい。その上、血の臭いによく似た異臭もした。
……まるで人ではない何かになりかけているように思えてしまう。
こんな姿になるなら、彼まで来なくても良かっただろうに。仮にもリグ・ティーナな王族だ。女神の倍、四十歳まで生きられるとの話は聞いたが、これでは女神と変わらぬ侵食具合だ。
きっと大幅に寿命を削ってしまった。本当に彼はそれで良かったのか。彼の側近のヒューゴーも同じ事を思ったようだが、彼は何一つ言葉を出さなかった。
きっと、こんな姿を見たらアイリーンは酷く悲しむだろう。
自分を返す為にここまで身体を張る必要なんてない。手に取るように彼女の言いそうな事がサーシャには分かった。嫌いだろうが、長年連れ添ったからか。女同士だからか。
どちらにせよ、彼女の感情など自分はどうだって良いが……。
サーシャはこの数日を
ジア・ル・トーの方向は霧が立ち込めているものの、淡い光が射して、丘の上に佇む廃塔の輪郭がいつもよりよく見える。
あの様子だ。アイリーンにずっと付きっきりでいる必要もないだろう。目に付かない間にぽっくり死ぬというのも恐らくないと分かっている。
どうにも従者と女神という神託で結ばれた関係は伊達ではないようで、彼女の異変は何となく伝わってくるのだ。それはリーアムも同じだった。
恐らく自分の場合、鏡が影響しているのだろうか……。
サーシャは懐から鏡を取り出して自分の顔を映す。すると、背後に見慣れぬ存在が映り、慌てて振り返った。
「……!」
女神装束にも似た純白に金の幾何学模様であしらわれた装束に目深にかぶったフード。こぼれ落ちる髪は白々としており、肩には大きな風の精霊が留まっている。彼女の手に持つ者は銀の杖。
恐らく噂に聞く〝裏方〟だ。
会ったのは恐らく初めての筈だが……。
何だか既視感がある気がする。そんな風に思いつつサーシャは顔を強ばらせた。
間違いなく、自分に終わりが近いだの説明に来たのだろう。臆したサーシャは顔を青くするが、彼女は首を振り「案ずる必要はない」と一歩二歩と近付いてくる。
「私は貴女の鍵を外しに来た。女神は厄災を起こすだろう。何が起きるか分からない。逃げ切るように、後悔なきように──今、私は貴女の心を解き放つ」
抑揚の乏しい口調でそう言って、彼女は杖をサーシャの喉に突き付ける。しかし、彼女の意図が読み込めない。
「何を言っているの……どういう事」
「考えるより感じろ。私は謝りたい。形式にとらわれ倫理に目を背け……貴女の感情を全て書き換えた」
「どういう……」
サーシャが震えた唇で聞いた途端、彼女の杖は宙を切り銀の幾何学紋様が走る。
「感じろ──呼び覚ませ、その記憶」
彼女が
──自分の事なんて何もできない彼女に対して、軽蔑していたし、いつだって腹を立てていた。
神殿に入ってからというものの、不安だらけの日々だった。しかし、そんな自分をいつも優しく見守ってくれた自分の片割れに幾度救われたのか。
そして、気づけば片割れに恋をしていた。
淡い憧れのような初恋だった。自分より年上、整った顔立ちで何よりも気高くも優しい。理想そのものだった。
しかし、彼の心は既に女神を見つめていた。その想いは何となく視線で分かる。それが悲しくも、より腹立たしかった。
自分は彼女ほど容姿が優れない。そばかすは目立つし、背もやや高くて可愛らしさがない。間近で見るアイリーンの可憐さに自分はいつも劣等感を抱くばかりだった。自然に彼女が憎たらしくなった。
けれど、憎たらしさの中にも「まったく、仕方ないんだから」という愛着があったのは事実だった。
同じ歳だが妹でもいればこんなかんじだろうかと、いつも思っていた。素直でどこか憎めないのだ。ぷりぷりと怒って不機嫌な態度を取ってしまったとしても、彼女の事がいつも気がかりだった。
ある日、自分の末路を知って絶望した。それを女神に教えてはならぬとの規則だが、取り繕う事ができずに彼女に伝え、当たり散らした事があった。
その時、彼女は『リーアムと二人で逃げて』と言った。そうしてアイリーンはリーアムを説得させた。しかし彼の答えはこうだった。
『いっそ、やるなら三人で』そう決めて最も深い闇に包まれる新月の深夜に石英樹海の脱出を試みた。
しかし、こんな拙い脱出など裏方には全て筒抜け──失敗に終わった。
そして自分の記憶や彼女を愛おしむ感情は箱の中にしまわれて、頑丈な鍵をかけられた。
リーアムも恐らく同様だ。
もう、神殿側の定めた運命に刃向かえないように、より忠実になったのだろう。
そうして自分に残ったアイリーンに対する想いは憤激と憎悪だけ。
だが身体は覚えていたのだ。だから彼女を丁寧に扱った。決して傷付けるような真似はできなかった。
それが分かった途端にサーシャの頬に一粒の涙が伝う。
「──っ、アイリーン……!」
「恐らく彼女の耳は聞こえている。貴女の心と共鳴し、女神もあの日の記憶を
──悪かった。そう告げた彼女はサーシャに丁寧に頭を垂れる。
サーシャは何も言えず、弾けるように駆け出した。