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40 迫り来る崩壊の時

 ※


 初めて大きな喧嘩をした。

 その日を境にアイリーンの様子は一変した。

 基本的に眠ったまま。

 時折目を開ける事はあるが、完全に心を失った様子で、どんなに呼びかけようが彼女は無反応になってしまった。

 容態が急変した時は脈が酷く乱れていたが、二日経過した今は安定している。

 しかし体温が異常に低い。彼女の手はひんやりと冷たく、顔色はより青白くなった。

 こうも彼女を追い詰めてしまったのは間違いなく自分の所為だ。

 彼女の眠るベッドの前に置いた椅子に座したジャスパーは前髪を掻きむしり、奥歯を食いしばった。

 ……確かにアイリーンの秘め事には裏切られたような気分になって腹は立った。その上、こちらの杞憂に言い訳ばかり並べる事も許せなかった。事実、そんな失礼な人間は嫌いだ。確かにそう発言したが、何も彼女を拒絶した訳でない。

 彼女の泣き顔を見た時点で頭は冷えていた。

 本能的には『もうやるなよ』と髪を撫でて抱き締めたかったが、それでは何の意味がない。以前庭園で同じ事で怒って、これで二度目だ。

 そもそもだが、感情的になり冷静さが欠けた人間に丁寧に説明した所で全て理解できる筈もない。

 こういった場合、少し時間を置いて何がダメかどうして怒ったかきちんと話し合えば良いと思った。

 甘やかすだけが愛ではない。真摯に向き合いきちんと叱る事だって愛だ。とはいえ、彼女を泣かせた事に罪悪感が募る。

『拒絶してないし、嫌ってないからな。後で話そう』そう告げた途端、彼女は崩れ落ちて悶え苦しみ、この状況に至った。

 ……当たり前だが、決して追い詰めたかった訳ではないし、謝罪させたい訳ではなかった。望んだのは、叱った理由をきちんと省みて欲しかっただけ。

 事実、自分は言葉を選ぶのが下手だっただろう。

 もっと丸く角が取れた言葉だってあった筈だ。押し寄せるのは後悔ばかり。ジャスパーはアイリーンの手を握り、深く暗い息をつく。その直後叩扉が響いた。

「……ジャスパー様。そろそろアイリーン様の身を清めるので退席願えますか」

 リネンや桶を持って入室したヴァラが静かに告げるので、ジャスパーはただちに立ち上がる。

「悪いな、頼む」

「いいえ。ジャスパー様も入浴し、しっかりと休んでくださいませ」

 ──あまり自分を責めずに。きっとアイリーン様はジャスパー様の声を閉ざした心の中で聞いておりますよ。

 そう言ってヴァラはやんわりと笑むが、彼女の表情は冴えず悲しげだった。

「分かった。今日は早めに寝る」

 彼女の顔をまともに見られなかった。乳母相手だからこそ、後悔を叫び子どものように泣いてしまいそうだったからだ。

 いい歳をした男が情けない。

 ジャスパーは滲んだ涙を悟られないように俯いて退席した。



 その翌朝の事だった。

 アイリーンの元へ向かう前に、彼女の瞳の色によく似た薔薇の花を一輪土産に持って行こうと、庭園から屋敷に戻る最中、後ろから名を呼ばれた。

「ジャスパー・ヒューズ様……貴方が現在の錆の王子で間違いないでしょうか」

 声は淑やかな女のもの。振り向けば純白の装束を纏った女が背後に立っていた。

 気配なんて感じなかった。

 その上、霧煙る早朝の情景に溶け込む彼女はまるで、この世の者と思えない儚さがあった。

 手には金の杖。肩には緑の鳥──風の精霊が留まっている。

 しかし、その鳥の大きさは通常の倍以上。足の爪も鋭く、普段見る小鳥とは違い、猛禽類のような勇ましい姿だった。

 白地の装束に金色の幾何学模様。フードを目深に被った装いはどこか既視感がある。アイリーンの女神装束に着こなしが似ているので神殿の関係者と分かる。

「いかにもそうだが……あんたどうやって入ってきた?」

 辺鄙な場所にある貴族の別荘なので警備は薄い。とはいえ、日夜問わず使用人が見回りをしている筈だ。

 彼女はそれに答えず「終わりが迫っております」と淡々とした口調で切り出した。

「恐らく女神の命は一週間持ちません。仮死状態に至り不吉な兆候が出ております。……厄災を起こしかねません。従者共々帰還するよう通達に参りました」

 言葉は頭で分かる。しかし感情が追い付かず、ジャスパーは目をみはる。

 果てない虚無に指の力が抜けて、薔薇は湿った地面に転がった。

 彼女は放心したジャスパーに近付き、何かを握らせる。

 手のひらに納まる程度のポイント状にカットされたクリスタルだった。それには蔓草のような細やかな幾何学模様の刻印が施されており、金の塗料で着色されている。

「強力な精霊避けです。このように使役下の者に効果はありませんが、野生下の者はまず寄り付きません。ただし昼の者だけです。男の従者が似たアミュレットを持っていますが、二つもあれば確実。惑う事なく無事に帰還できます」

 淡々と彼女は説明を続けるが、ジャスパーの思考は止まったままだった。

 一週間も持たない? アイリーンが死ぬ? 仮死は厄災が起きる兆候……。様々な思考がざわつき、苛立ちと不安が同時に押し寄せる。

 そもそもだ。この女はアイリーンの状況を全て見透かしている事を伺える。

 ジャスパーは思考を落ち着かせようと大きく息を抜き、地面に落ちた薔薇を拾う。

「……あんた滞在中に見かけなかったな。神殿関係者のうちの一人だよな?」

 そう訊くと、彼女は抑揚のない口調で「裏方ですので」と答えた。

 感情が乏しい喋り方とはいえ、声色が妙に若々しい。自分とそう年端も変わらぬ妙齢の女と思しいが、目深に被ったフードから漏れた毛髪が白銀髪なので、若いのだか年寄りなのかよく分からなかった。

「で、その裏方さんは、アイリーンの状態が良くない事を把握していたみたいだが、その精霊の目か? 前から思うが、どうして即座にアイリーンを連れ戻さずに猶予まで与えた?」

 死期が近い憐れな少女と若き従者たちに僅かでも幸福な時間を与えようなどといった魂胆でない事は初めから分かっていた。

 明らかに不自然だ。その点を突くと、彼女は僅かに唇をゆるませた。

「あぁ、まるで空高く飛ぶわしのよう、物事の本質を冷静に見極める素晴らしい知性を持っておりますね。さすがに錆の王子」

「そりゃどうも」

 質問の答えになっていない。話が通じているのだろうか。

 ジャスパーは苛立ち続けて口を開くが、彼女はただちに言葉をさえぎった。

「全て貴方がおっしゃる通り。しかし、貴方はやはり見えているのですね」

「精霊の事か? そんなものは物心ついた時から見えるが、それがどうかしたのか」

「……ジャスパー・ヒューズ様。貴方は、なぜに普通の人間が見えもしない自然霊が見えるのかと考えた事はありますか?」

 そんな事まともに考えた事もない。と、いうのか……この女の話はやはりまどろっこしい。訊いた事と違った返答ばかりだ。

「だから何だって言うんだ……猶予を与えた理由については答える気がないのか?」

 淡々と訊くと、彼女は「いいえ」と首を横に振る。

「あくまで質問の答えの序章です。貴方が知りたい事だと思いますよ。貴方は女神との関係性を解き明かせば、呪いが解けると夢見て石英樹海に来たのですし」

「そいじゃ頼む。なるべく分かりやすく、手短に要点を纏めてくれ。あんたの話、論点がズレてるように聞こえて随分とまどろっこしくて腹が立つ」

 一つ鼻を鳴らしていってやれば、彼女は会釈程度の頭を下げた。

「……それは失礼しました。では要点を纏めて語りましょう。理由は、初代の女神とともにから呪いを受けたからとしか言いようがないでしょう。私たち精霊術士……エルン・ジーアの王族の血を引く者たちの間で語り継がれた話です」

 それを告げる彼女の唇はどこか重々しく、声色もどこか暗いものになってきた。

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