その日の午後、アイリーンは最近始めたばかりの縫い物を楽しんでいた。
刺繍枠の中にはいびつに尖った形の花。布は引っ張られて糸が寄ってしまっているせいでラベンダーの筈が何だか別のものに見えてしまう。
それでも彼女は刺繍を楽しんでいた。
刺繍はヴァラの薦めだった。
幻聴が多くなり部屋の中で過ごす時間が増えてから、少しでも気晴らしになればと初歩的な技術だけ教わった。確かに、ぼんやりと過ごすよりは何かに集中していた方が幻聴は起きにくい。
それに刺繍は古くから淑女の嗜みだそうで、覚えて損はないとの事。
思えば、夢の中でもシャーロットがよく指先を器用に動かして針を扱っていた場面は何度か見ていたので、古くからの淑女の嗜みというのは頷ける。
彼女にできるという事は自分にもできるのだろうか。ならば……と初めてみたが、これはなかなか一筋縄でいかなかった。
力加減は思ったよりも難しく、布が引っ張られてしまうし、後ろで糸が絡まってしまうなんてよく起きる。
(ふふ……下手ね。でも昨日よりはマシになってきたかしら?)
図案とは随分と違うが、それでも僅かな成長が伺える。アイリーンは玉留めして糸を切ったと同時、叩扉が響き間もなく扉が開く音がする。
「おう、体調は大丈夫か?」
軽い調子で言って入ってきたジャスパーは、襟なしの簡素なシャツによれた下衣にブーツを合わせていた。今日は工場に様子を見に行くと言っていたが、思ったより帰宅が早い。
しかし自分はそんなに集中していたのか。彼の帰宅は飛行二輪の喧しい排気音が伴うが、それに気付かなかったのだ。否、自分が慣れてしまったのか……。
「ジャスパーおかえりなさい」
「おう、ただいま」
そういって笑む彼の肩に白い鳩が乗っていた事に今更のように気付いた。
「え? あれ……グウィンじゃない?」
しかし彼女から返事がない。
そもそも部屋に入ってきた時点で、彼女もきっと声をかけている筈なのに聞こえないというのもおかしい。アイリーンは不審に思って首を傾げる。
「ずっと体調不良で庭に行けてないだろ? 友達に会いたいだろうなって思って連れてきたんだよ」
彼はそう言って優しく笑む。しかし、やはりグウィンの声は聞こえない。
彼女はジッとアイリーンを見つめているが……どういう事だ。
黙考していれば、ジャスパーは覗き込むように机に置かれた刺繍枠を見る。
「おお、刺繍か……? ん、紫の槍……? いやアイリスか?」
二番目の方は惜しい。しかし発展途上も良い所。下手なものを見られるのは恥ずかしい。アイリーンは慌てて刺繍枠を取るが、弾みに何かが音を立てて床に落ちた。
「……えっと、これでもラベンダーよ。でも上手く縫えなくて」
真っ赤になって言うと『徐々に上手くなるさ』なんて言って、彼は床に落ちたものを拾ってくれたが、彼の顔が明らかに強ばった。
音からして読み途中の本でも落としたかと思ったが、彼が手にしているものを見てアイリーンの顔も強ばった。
今までの夢の内容を記してきた記録日記だ。
「ジャスパー……その、それ……」
以前、夢の内容は書くなと忠告されていた。
どこに行ったか何をしたか、どんな気持ちだったか……そんな内容だって勿論記しているが、最近では九割が夢の事、幻聴の内容ばかりだ。
彼は硬い表情のままページを捲り文章を目で追う。ややあって彼はアイリーンに目を向けた。
「なぁ。俺が言った事を忘れたのか?」
「それは……その……だけど何か重要な手がかりになるかもって。あの、返して」
アイリーンは手を伸ばすが彼はやんわりと払い除ける。
所作こそ乱暴ではないが、その形相は恐ろしい。
以前にも怒った彼を見たが、その非ではない。明らかな怒りと苛立ちがその表情に滲み出ていた。
「そんなの書いてりゃ、現実との境目が危うくなる。自ら寿命削っているようなもんだろ。役に立つ? 確かに石英樹海も女神も現代の発展した文明にはそぐわない神秘的に包まれてるけどな、どこにその根拠と確証があるんだよ」
「だけど……私が調査に役立つ事って……」
部屋の間取りや日々の儀式の内容くらいしか教えていない。石英樹海周辺の地形だのはリーアムたちの方が詳しいのでアイリーン自身、自分がこの調査に何か役に立ったとは思えなかった。
むしろ殆ど何もしていない。それらを区切り区切りに言うが、彼は呆れたとでも言うように、大きなため息をつく。
「は? だから何だって言うんだ。別に役立てなんて俺は言っていないし、
お前。そんな呼び方は初めてされた。
主従関係の区分か、ジャスパーは自分の側近のヒューゴー以外にそのような呼び方をしない。大抵は〝あんた〟呼び。
自分に関しては、いつも名で呼んでくれた。
突き放されたようで悲しい気分になり、自然と瞳に分厚い水膜が張った。しかし、彼は睨んだままアイリーンを離さない。
そんなに自分は悪い事をしてしまったのだろうか。
確かに、やるなという事を黙っていたのは悪かったかもしれない。それでも、ここまで怒るものか……。
次第に瞼が燃えるように熱くなり、水流が生まれる。
歪んだ視界の中の彼は恐ろしい形相のままアイリーンを離さなかった。それどころか、呆れた調子のため息がまたも聞こえた。
「今回はさすがに許せねぇ。前も言ったが、心配する気持ちを踏み躙るのは失礼だろ。その上、お前は言い訳ばかりだ。男だ女だなんて関係ない。一括りに俺はそんな人間が大嫌いだ」
嫌い。はっきりと言われた言葉にアイリーンは打ちひしがれた。
……ああ、もうきっと彼は自分を好きではないのだ。
だからこんなに辛辣な態度が取れるのだ。彼が自分に向けていた情熱は、こんな些細な事で何もかも冷めてしまったのだ。
恋とはなんて脆いものだろう。
こんなに悲しい気持ちになるなら、恋なんて愛なんて知らない方が良かった。アイリーンは初めて後悔した。
涙が止まらない。呼吸が苦しい。背が震え、身体の芯から凍てついてしまったように寒くて堪らない。アイリーンが俯き嗚咽を溢し始めると、彼は
去り際のジャスパーが何か一言発した。だがそれ掻き消して──頭が割れそうな程の声が響き渡り、一瞬にして視界が赤々と染まった。
『こんな事、望んでいなかったのに!』
『私が彼を試したりなんてしなければ、あの人は死なずに済んだのに……』
『私はあと何人の写しを殺す事になるの……もうこんなの嫌よ!』
シャーロットの金切り声だ。
しかし今日の嘆きは止まらない。頭が割れそうだった。呼吸も苦しい。喉の奥に冷たい氷塊でも詰まったかのようだった。
悲鳴をあげたアイリーンは座していた椅子から崩れ落ち、床の上で喉を掻きむしりのたうち回る。
同時に侵食が起きていた。身体の側面から心臓目掛けて冷たい結晶がピキピキと迫り来る感触がして、これまでに感じた事もない程の鋭い痛みが暴れ回る。
あまりの激痛に甲高い悲鳴をあげ、身を捩るとすぐ。包まれるように抱き寄せられる感触がする。
赤に色付いた視界の先にジャスパーの顔がうっすらと映った。
何か必死に呼びかけているようだが、彼の声はもう聞こえない。
それでも唇の動きで自分の名前を呼んだ事は、何となく分かった。
「ジャスパー、ごめんなさい……」
──私の事きっと、もう嫌いなのに。迷惑かけてごめんなさい。
はっきりと発音できているかは分からない。アイリーンははくはくと唇を動かすが、次第に赤い視界は黒一色に染まり──アイリーンは意識を失った。