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38 衰弱する身体

 ──七月二十五日。

 頭が割れそうな程の幻聴がこの一週間、毎晩続いている。昨晩は三回。

「ごめんなさい」

「こんなの知らなかった」

「私はこんなの望んでいない」

 響く声は殆どがこの三つ。

 シャーロットは何を訴えたのだろう。

 何をそんなに謝るの。これは女神になった私たちに対して? 

 けれど、急に頭痛と幻聴の頻度が増えるなんて、私はどうしちゃったの。どうして急に体調が悪くなったの。

 ジャスパーが〝生きる事自体を諦めないでくれ〟って言ったし、私もそれを強く信じている。だけど素直に怖いわ。悪い風に考えたくないけれど、こんな不調なんて今までなかった。だから、とても怖い。

 だけど、夢の内容は美しくて穏やかなまま変わらない。


 アイリーンはそこまで綴ると、瞼を伏せて夢の中の景色を思い浮かべる。

 宮殿……現在の神殿の西側には〝天へと続く扉〟を意味するジア・ル・トーと呼ばれる小高い丘がある。

 その丘は今と違い分厚い霧に覆われておらず、様々な花が咲き乱れているのが遠目でもよく分かった。頂上には白い塔。夕暮れ時になれば、塔は茜色に染まり息を飲む程に美しい日没が訪れる。

 シャーロットはその塔を〝残影の塔〟と、傍らに立つ彼に説明していた。

『残影。つまり……僅かな光が漏れる場所。あそこはね名の通り〝天へと繋がる〟特別な場所。自然霊の故郷はあの扉の向こう。伝え聞く話によれば、彼らの世界の上には神々の住む世界があるんだって。あの場所に行けるのは、精霊の力を借りる事ができるエルン・ジーアの王族くらいなの』

『そういえばエルン・ジーアの起源自体、精霊と密接な関係があるんだよな?』

『ええ、そうよ。王族であると同時に私たちは精霊術士。だけど私たちが力を借りられるのは〝昼を司る者たち〟だけ。私たちエルン・ジーアの民全てが豊かに暮らせる理由は何もかも精霊たちのお陰よ』

 得意気にシャーロットが説明すると、彼は興味深そうに身を乗り出した。

『昼が存在するって事は夜を司る者もいるんだよな? あんたたちってそいつらの力は借りられないのか? そっちも活用できたら、もっと国はもっと豊かに発展していくものじゃないのか?』

 ──って。よその国政に口出す事じゃねぇよな。なんて付け添えて。彼はジャスパーと似た苦笑いを浮かべる。シャーロットは、そんな彼に微笑んだ。

『そうね、その意見は尤もだけど無理なの。〝借りる〟って事は〝返さなきゃいけない〟のよ。とは言っても、恩恵をそのまま返すのは無理。物々交換と言った方が正しいかしら。昼を司る者たちに力を借りるには割と簡単なお返しで済むけど、夜を司る者たちへのお返しは割に合わないのよ。髪の毛や爪を寄越すなんてまだ可愛らしい。寿命や魂そのものの取引になるわ』

 歌うようにシャーロットが語ると、彼は『おっかねぇな』とごちて、頬をかいた。

『だけど夜の者は悪い存在ではないわよ? 昼の者たちは〝生と春夏〟を。夜の者たちは〝死と秋冬〟に喩えられるの。生き物は命が尽きれば亡骸のなり、それは土に還る。草花が芽吹けば季節の移ろいでいずれ枯れるのと同じ。命は廻る。そのサイクルが崩れないのは、夜を司る者たちの存在あってこそだもの』

『つまり自然の摂理そのものか。……とは言ってもおっかねぇな。つまり、夜の者って生きているうちは関わらん方が良い存在って事な』

『ふふ、そういう事かも。でも変なの。国王様と喧嘩して宮殿を飛び出してきたアゲート王子にも怖いものってあったのね?』

 揶揄するようにシャーロットが言うと、彼はばつが悪そうな顔を向けた。

『家出事情を掘り起こさんでくれ。あんたに王子まで付けられて呼ばれるとマジで恥ずかしい。いつも通りに呼んでくれよ?』

『アゲートって鷹とかわしみたいな強い鳥に似ているのに、照れると可愛いわね』

 シャーロットがクスクスと笑むと、彼の頬はたちまち赤々と朱が差した。

『男に可愛いがあるか。馬鹿言え、あんたの方が可愛いだろ』

 初代錆の王子であろう、アゲートはやはりジャスパーとよく似ていた。

 背格好も、話し方も、表情も何もかも。まるで生き写しのように思う。

 ……シャーロットと彼が仲良くなった理由は、お互い夜会嫌いだった事だ。

 リグ・ティーナ、イル・ネヴィス、エルン・ジーア……この三国間で定期的に夜会は行われており、年頃のシャーロットもアゲートも立場上、殆どに顔を出していた。

 シャーロットは第一王女。

 上にも下にもはおらず、国の決まりに基づき彼女は将来的にエルン・ジーアの女王になる未来が待っていた。

 夜会に訪れるのは交易以外に婿探しも兼ねて。

 アゲートに出会う二年前。シャーロットは十五歳から夜会に参加するようになったが、彼女は早々と夜会が大嫌いになった。

 王女とは言え、礼儀作法や勉学の時間以外を自然の中で自然霊たちと過ごす時間が長いので、人だかりなど慣れていなかったからだ。

 予想以上に人が多いので息が詰まる。その上、婿捜しという裏の目的は夜会に来る誰もが知っているようで……男たちは目の色を変えてアプローチに来るのが鬱陶しくて仕方なかった。

 小国の未来の女王。とはいえ、エルン・ジーアは豊富な資源を有する事から近隣国の者たちは皆深い関わりを持ちたがっていた。

 誰も自分の本質など見ていない。

 見ているのは背後に貼り付いた約束された〝女王〟の冠。

 果たしてどこの国の王族か貴族かも知らないが……自分の父親と歳も変わらぬ中年の男が猫撫で声で媚びを売る様がシャーロットは気持ち悪くて仕方なかった。

 手を取って甲に口付け。それが紳士の挨拶だが、分厚いヌメヌメとした唇や卑しく曲がったガサガサとした唇を押し当てられると、背中に寒気が走った。

 見た目で人を判断するのは良くないと分かっている。しかし、結婚すれば床をともにするのが普通だ。つまり世継ぎを作る為に裸になって……。

 安直に結び付く事案に自然と拒絶反応を起こし、シャーロットは夜会に出向くものの軽い挨拶を交わした後、庭やテラスに逃げるようになっていた。

 そんな中、退避先でよくアゲートに会うようになった。

 訊くに彼もシャーロットと全く同じ理由で夜会に送り込まれているらしい。

 彼だって第二王子という立場。将来的に王座に座る事はないものの、公爵位を授かる事になる。なので貴族のご令嬢や近隣国の第二、第三の姫君は必死に彼に迫るのだ。

 リグ・ティーナはこの近隣では最も産業が発展している故に貿易が盛んで国の経済は潤っており、当然王族は金をかなり持っている。

『多分、ご令嬢どもは俺自体を見てないんだよなぁ。見ているのは王族、第二王子って身分。あと失礼ながら恐らく金。そもそも俺、工学が好きなだけで他に取り柄なんてねぇし。それに、人相も良くないからな。目付きがキツイ所為で、睨んでもいねぇのに、ご令嬢にビビられる事あるし……』

 アゲートは自嘲しつつ、そんな事情を語ってくれた。

 王子らしからぬ程に粗暴な言葉使いではあるが、包み隠す事もない素直さ。ハキハキとした物言い。

 彼はとてつもなく真っ直ぐな人間だった。

 それをはっきりと証明できるのは、彼が精霊に愛されていたからだ。

 二人で話していると、彼の近くに精霊たちが毎度必ず寄って来る。

 ──小鳥の姿は風の精霊、小さな竜の姿は火の精霊、長い尾ヒレを持つ魚の姿は水の精霊……それに兎に似た姿の土の精霊まで現れたのでシャーロットの視線に立つアイリーンも驚きが隠せなかった。

 風の精霊に関しては悪戯好きで社交的。たとえ見えていなかろうが平気で人に寄り付くが、他の精霊が自ら寄ってくる事は滅多にない。特に土の精霊は警戒心が強く人前に姿を見せる事など稀だ。

 精霊たちがこうも寄り付くは、恐らく発する波動が近しいのだろう。それだけ彼の心が透き通っていて、純粋な好奇心に満ちているからだと捉える事ができた。

 そうして出会って五回目の夜会にて──

『俺と結婚するか?』と、軽い調子で言われた。

 その頃にはもうアゲートが飄々とした性格な事は分かっていたので、冗談かと思ったが……彼はその後何度もその旨の文を寄越し、終いに国王の反対を押し切りエルン・ジーアの王宮まで馬を走らせてやって来たのである。

 そこで彼が本気だと悟った。

 戸惑いやしたが嫌な気はしなかった。

 それに彼と過ごす時間はいつだって楽しい。だから、もっと彼を知りたくなったし自分の事をもっと知って欲しいと思った。   

 次第に惹かれ合い二人が恋に落ちるに時間なんて必要なかった。

 心いっぱいに満たされるシャーロットの幸福感は彼女の視点に立つアイリーン自身にも甘く痺れさせる温かな心地がした。

 そう、自分がジャスパーに対して抱くあのドキドキや気恥ずかしさと全く同じ〝恋の心地〟。二人は確かに愛し合っていた。

(あんなに幸せだった筈なのに。どんな不幸があったというの。シャーロットはどうして女神になったの……)

 アイリーンはペンを置き、深く息をつく。

 その面は病的な程青白かった。

 目の下には青黒いクマがうっすらとできており、血の気が薄い。見るからに体調が芳しくない事は伺える。

 カーテンの隙間から燦々とした夏の日差しが差し込んでいる程。

 室温も高い筈なのに、アイリーンは身震いをして膝にかけていたブランケットを背に羽織った。

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