その後、暫く二人は恥じらいの熱を冷ますように、あちらこちらを練り歩いた。
少しばかり気まずくて幾分かは会話もなかったが、広大なキャベツ畑に紋白蝶が飛び交う様があまりに美しかったので、再び自然と会話が始まった。
お互いの小さな頃の話や自然霊たちの話。彼は虫が苦手だとか、自分は雷の音が苦手だとか。大した中身のない軽い会話をしながら、歩んでいるうちに、屋敷から随分と離れてしまった事に気が付いた。
だが、空は早急に暗い雲を集めていた。
急ぎ屋敷の方角に戻ろうとするが、
夏特有の通り雨だ。ジャスパーはアイリーンを雨宿りにと橋の下へ誘った。
やがて雨脚は強くなり、ざぁざぁと響く音とともに緑の香りを濃くさせる。
「向こうは晴れている。すぐに止むとは思うが……」
ジャスパーは遠くに見える青空を指して言う。確かに雲の流れから考えるに、もうすぐ止みそうだった。それでもなかなか雨脚が強い。
「何だか、二人で雨の檻の中に閉じ込められちゃったみたい」
思ったまま言葉にすれば、彼は「上手い事言うな」とクスクスと笑む。
「悪い意味じゃないのよ? 自分の足でいっぱい歩いて、自然を近くに感じて今日は凄く楽しかったもの。だからこんな風に閉じ込められて足止めさせるのだって、悪くないなって思うの」
「そうか? 散々に歩かせた挙げ句、雨に降られて橋の下で雨宿りって……デートプランとしては最低だと思うが」
「そんな事ないわ? ジャスパーと一緒だもの、楽しいしとても幸せ。それに……」
そこまで言って、アイリーンは唇を噤んだ。
飛行二輪だと横顔が見えない。こうやって彼の顔を間近で見られるのが何だか嬉しかった。それに手を繋いで歩けた事も。身長が頭一つ以上違うので、歩幅だって圧倒的な差がある。
それなのに、彼は自分の狭い歩調を合わせてくれた。
嬉しくて幸せで仕方なかった。彼の笑顔が愛おしく堪らなく思えた。
しかし、それらを言葉にするのはどうにも恥ずかしかった。先程牛たちにあんな事を言われた手前だ。
「……それに、どうしたんだ?」
ぞっとする程に甘みを含んだ声だった。こんな声は聞いた事がない。アイリーンは彼に視線を向けてすぐ、心臓が早鐘を打つ。
今までだってきちんと異性と認識していたが、今の彼はどうにもその色が濃かった。
自分を見つめる視線は優しいが、その中には膨大な熱で蕩けていた。それに真っ直ぐ見下ろされ、顔を近付けられたら喧しい程に心臓が脈を打つ。
ふと牛の言葉を思い出した。
──彼は猛禽類、自分は小動物。いつか捕食されちゃうよね。と……。
天敵と対峙した時の弱者の視線はこんなだろうか。けれど自分たちは人間同士、確かに男と女という違いはあるが……。
それでも目が離せず──。
するとたちまち、唇を奪われてしまった。
キスはこれで何度か。
しかし、今日は何だかいつもと様子が違った。
雨の所為か──濡れた花片同士を合わせるようにとてもしっとりとしていたからだ。
その上、なかなか唇を離してくれる様子ではない。彼は貪るように角度を変えて何度も唇を食んだ。その途端──唇の先に熱い塊が触れた。ヌメリとした感触に驚き、アイリーンは目をぎゅっと瞑る。
(な……何……)
今のは何? 彼に訊こうと口を開けようとした途端。そのヌメリを持った物体が自分の口の中に滑り込み、アイリーンは背筋を戦慄かせた。
「は……んぅ……」
ちゅ。くちゅ……と、どこか淫靡な水の音が頭の奥に響き渡る。
薄く瞳を開ければ、間近に彼の睫が揺れていた。
自分の舌に今絡まるもの。それが彼の舌だと理解して、羞恥にかっと頬に熱が弾けた。
彼が舌を絡める度に不思議と身体の力が抜けていく。それを見計らったように、ジャスパーは、ゆるやかに地面にアイリーンを寝そべらせた。上に覆い被されるものだから、逃げ場などないし押し返すなどあまりに虚しい抵抗だ。
「ん……ぁ……じゃす、ぱ……」
それでも僅かに開いた唇の隙間で彼を呼んでようやく、ジャスパーは僅かに唇を離してくれた。
「……俺も幸せだ。愛してるよアイリーン」
告げられた言葉はとびきりに甘やかな告白だった。今まで何度か好きという好意は伝えられたが、こうも熱っぽさのあるのは初めてだっただろう。
しかし先程の烈しいキスの余韻が強く、上手く返せない。アイリーンがただ頷くと、彼はアイリーンの頬にちゅ。と、一つ口付けを落とす。
「……雨が止むまでアイリーンとキスしてたい」
彼の言葉が唇を擽った途端──しっとりとしたものが再び触れた。
その後は妙に夢見心地だった。
耳に響くのは自分たちの唇から漏れる水音と雨の音だけ。隙間から溢れる彼の息が何度も唇を擽り、甘く食まれる都度、頭の奥にもんやりとした甘い痺れに満たされた。
やがて、雨の音が消え失せて、そこで彼はようやく唇を離してくれた。
「はは。延長したいとこだが、時間切れだな」
そう言って、顔を上げた彼は再び日の差し込む外を見て、陽光に似た色の目を恨めしげに細めていた。
どこか後ろめたい不安を覚える反面で、胸の奥から幸せが込み上げて泣きそうだった。
離れる事が妙に名残惜しかった。
願わくは、もっとされたいとさえ思えてしまう。
アイリーンは彼のシャツをきゅっと握ると、視線を向けてくれる。
「……わたし、ジャスパーとキス。もっと、したい」
唇に纏わり付く余韻にどうにかなりそうだった。強請るが、彼は再びアイリーンの唇をやんわりと塞ぐものの、すぐに離す。
「これ以上はここではダメ。部屋で続きするか?」
したい。そう頷こうとするが「でもなぁ……」と彼はすぐに口を挟み、アイリーンの耳元に唇を寄せる。
彼の声が内耳を甘く擽り、言われた言葉にアイリーンの頬はみるみるうちに赤みが増した。
「……ぅ」
「な? 困るだろ?」
軽く笑んで、立ち上がった彼は丁寧な所作でアイリーンを起こし上げた。