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石英樹海を出て早い事二ヶ月。
リーアムは窓辺に立ち、目を細めていた。
石英樹海は一年のうちに快晴なんて数えるほどしかないので、いまだに晴れた空の眩しさは目が慣れなかった。しかし、決して不快なものではなかった。
石英樹海の色彩は一つ二つ彩度が低いように思う。それに比べて、外の世界は息を飲み感動する程に色鮮やかだったのだ。
外の事についての最低限は幼い時に神官たちに教わった。
二つの国の歴史や、その国の特色や人柄など。様々な事を教わったが、リーアムからすると、リグ・ティーナの印象は悪かった。
──周りから頭一つ分以上は飛び抜けて産業が発展した国。その代償に自然の多くを失っており、まさに錆臭い国だと聞いた。
産業が発展すれば比例するように軍事産業も発展する。
砲弾に爆弾、銃火器などの殺傷兵器の開発も進み、この国の保有する火力は大陸の中では最高位。血盟国であるイル・ネヴィスはリグ・ティーナに守られているらしい。
二国は血盟関係と言われているが、本気で石英樹海を奪い合ったとしたら問答無用で勝ち目なし。それどころか、イル・ネヴィスの領地さえ容易く奪えるであろう〝末恐ろしい国〟と神官は語っていたからだ。
……それも晶の女神と似た存在、錆の王子のいる国だ。
女神との関係性は不明だが、同じく災いをもたらす者と見なされている。
三代目はその存在を天井画に書き示したが、いったいどこでその情報を聞き出したのか。と彼女の死後、神官たちは女神の部屋を見てどよめいたとの記録が残っている。
神官や司祭は女神が生きている間は部屋に立ち入る事はない。
部屋での生活を知っているのは、石英樹海出身の従者のみ。その従者たちも贄として女神の死後直後に命を捧げるのだ。
しかし、今代で密通があったからだと秘密は暴かれた。それだけでとんでもない大発見だが、今代はその上を越えた。
なにせ、女神が外の世界に連れ出されたのだから……。
ましてや、従者二人も追いかけるように外に出る羽目になったのだ。
これなら、女神と従者三人で世界の果てまで逃げられるではないか……。
リーアムは僅かに希望を持ったが、これは不可能と即座に悟った。
……石英樹海を出てからというものの、悪夢を度々見るようになった。
それだけでなく、発作のように酷い耳鳴りや頭痛が頻発して、石英樹海から逃げる事を考えようものなら臓腑を握り潰されるが如く痛みが走る。
恐らくだが、呪詛や呪縛の類いだろうと想像は容易い。
この症状はサーシャも同様だった。屋敷に来てすぐ、彼女は不調に苛まれて部屋に閉じ篭もっていた。
従者という対等な立場……いずれ運命をともにする〝片割れ〟だ。
その日が来るまではただの同僚。心配になって彼女の様子を見に行けば案の定、主人に対する呪詛を吐き散らす荒れ模様だった。
『どうして』
『なんで』
『ふざけるな』
『あの子の所為で何もかもが台なしだ』
嘆いたところでどうにもならない事だが、彼女は呪わずにはいられない様子だった。
「……仕方ないだろう。アイリーン様さえ知らぬ事だ。そもそもだが、我々が苦しむ事などあの方が望んでいる筈がない」
──子どもではないのだからいい加減に理解しろ。と、正論を叩き付けるが、罵声と一緒にクッションが飛んできた。
彼女が女神を嫌い恨んでいる事は知っていたし理解していたが、こうも感情的だと話にならない。
もう触れぬ方が良いだろう。何を語ろうがサーシャに響くものはきっとない。黙って寄り添えば良いだろうか……。
リーアムは早々サーシャとの対話を諦めた。
サーシャとて昔はこうではなかった筈だ。やや生意気な部分はあったが、いつも自分の後をくっついて歩き。 女神に対しても本来はもっと……。
しかしそれ以上はどうにも鮮明に思い出せない。
どうにか思い出そうとすると、一人の女の姿が頭にちらついた。
『仕方のない事だ。恨んでくれるな。ああ、私か。裏方さ。私は厄災を起こさぬ為に神殿に遣える身……お前たちと同じ石英樹海の人間──精霊術士さ』
淑やかでやや低い女の声が頭に響く。
自分が
それでも彼女の風貌だけは頭に鮮明に残っている。
女神装束と少し似たものを纏っていた。白装束のフードを目深く被り、ぱっと目を惹くのは艶やかな深紅の唇。
真珠のように艶のある白い肌から中身の年端は恐らく妙齢か。否……自分の幼き日と二度目に会った時の風貌が殆ど変わっていなかったので年齢は想像できない。
……外の世界の言葉で言うなら「魔女」のような存在だろうか。
石英樹海の人間が自然霊を目視できるとはいえ、超常的な力など扱えない。それを使役する程だ。呪縛の一つでも植え付けるに違いない。
心当たりはそれ以外にない。自分たちの呪縛は彼女の仕業だろう……。
どうにかならないものか。僅かに痛むこめかみを揉んでいれば、外から自分の主の声が響く。リーアムは遮光カーテンを捲って彼女の姿を探った。
正面玄関のアプローチの前に彼女の姿があった。その隣には、ジャスパー・ヒューズの姿が当たり前のようにある。
女神装束でない彼女はいまだに新鮮だった。
今日の装いは生成り色のブラウスにレースのたっぷりあしらわれた茶色のコルセットスカート。焦げ茶のブーツを召している。
それに髪型も変わっただろう。長さこそ変わっていないが結い方が少し変化した。今現在サーシャが仕えていないので、ここの使用人が手伝っているのだと思しい。
しかし、使用人の話によると、彼女は大抵の身支度を一人でこなせるようになったらしい。今では一人で着替えられるそう。と、考えると……髪の毛も一人で結っているのだろうか。
たった一ヶ月で彼女は大きく変わった。
しかし、それが悲しい変化だとリーアムは思えなかった。
このままどこか遠くに行ってしまいそうな心地さえしたが、それが叶うのであれば、そうして欲しいと思えた。
調査などをしている手前で言えたものではないが、恐らくこのまま呪いから逃げられる訳がない事は分かっていたからだ。
自分たちでさえこれだ。
外に出ようが宿命にずっと睨まれている。
……いつか必ず嵐はやって来る。
嵐の前の静けさだとしても、一秒でも長く彼女に幸せであって欲しいと思えた。彼女が幸せで、笑顔でいてくれれば何だって良いと思えた。
リグ・ティーナに良い印象はない。
それでも、ここの使用人たちは温かだった。それは、ここの主人──錆の王子ジャスパー・ヒューズも同様だった。
初めこそ軽薄な男だと思ったが、彼の心は岩のように強かで空のように広かった。
視野の広さと柔軟な思考は、憧れといった意味で強く惹かれる部分がある。
「ねぇ、ジャスパー。今日はどこに連れてってくれるの?」
女神のこんな嬉しそうな声なんて今まで聞いた事もなかった。
ジャスパー・ヒューズという男は、恐れ敬う厄災の女神を〝アイリーンという齢十七歳の少女〟に変えた。
もはや彼女が彼に向ける視線が愛する人を見つめるそれだと遠目でも分かる。それは彼も同様で、人前では見せないような優しい視線を送っていた。
このところ二人は度々外出する。
そんな後ろ姿を眺めると自然とため息が漏れる。
手を繋ぎ歩む後ろ姿は悔しい程にお似合いだからだ。
(悔しいが……二人に幸せであって欲しい)
祈るように心で唱えて、リーアムは静かにカーテンを閉めた。