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29 秘密の日記

 ──七月一日。今日は鉱山跡に連れて行って貰った。

 緑の木々が生い茂る森と違って、ゴツゴツとした岩場はどこか石英樹海の侘しい涼やかさを思い出したわ。

 眼下に海を臨むとても気持ち良い場所だった。太陽の光にキラキラと波打つ水面、その上を飛ぶ海鳥たちは魚群を追っているようで、とても賑やかな会話が山の上まで聞こえたわ。


 昨晩書き上げた日記を見た後、アイリーンは行間を取ってペンを走らせる。


 ──夜会に出掛ける夢。夜の庭園でアゲートと再会。

 彼は人混みが苦手だそうで、夜会ではいつも静かな庭園やバルコニーに退避するみたい。シャーロットもそれに同じ。

 そんな部分で意気投合。彼が精霊に愛されていると会話を切り出した所、予想外に話が弾む。夜間の侵食なし、幻聴あり。


 そこまで書いてアイリーンはペンを置き、数日前の内容を振り返る。

 ……薔薇を見に行ったあの日からひと月が経過した。

 その後、できる限り調査も協力し、自分の知る範囲の事をジャスパーに伝えていた。

 過ごす日々は充実していた。

 彼は暇さえできればアイリーンを飛行二輪に乗せて色々な場所に連れ出す。

 しかし、幻聴の数は増えつつある。

 決まって内容は初めと同じで悲痛な叫びだ。

 夢はまだ和やかなので苦でないが、幻聴は頭痛を伴い一時的に気分が悪くなる。

 自分の身に何が起きているかは分からないが、侵食が進んでいないだけ命に別状はないと思えた。

 しかし、なぜに初めの女神の夢や幻聴を聞くのか。こんな兆候は、先代のフローレンスや二代目の女神にもあったのだろうか。そんな風に考えるが、フローレンスの手紙には一切そのような事は書かれていなかった。

 自分が特別だろうか。

 なにせ石英樹海を出た女神は史上初に違いないのだから。

(……辛いから、できれば幻聴は訊きたくないけど)

しかし何度も聞けば、いい加減に前触れが分かる。

 前兆は、視界の縁が赤黒い靄が漂い、次第に周りが見えなくなる。

 こうなれば一拍も経たぬうち、こめかみを刺されたような鮮烈な痛みが走り、ひび割れた幻聴が劈くのだ。

 どうにか拒めないものか……。

 その瞬間、別の事を考えてみるか自分の言葉で拒むか。その時が来たら試してみる他ないが……。

 そんな風に思いつつ、アイリーンはページを捲る。

 思えば石英樹海を出て早い事二ヶ月以上が経過している。

 四月の中頃、彼に連れ出されて、五月頭に従者がやってきた。六月まで引き篭もり、ようやく動き出して彼と恋人になって一ヶ月……もうすっかり夏だ。

 窓の外は快晴。今日は暑くなりそうだ。

 太陽が昇ったばかりの青空を眺めている最中だった。こちらの部屋に向かってくる足音が聞こえて、アイリーンは急いでノートを閉じる。

「おはようアイリーン。お、もう着替えたのか」

 やって来たジャスパーは夜着のガウンを羽織ったままだった。おまけに鳶色の髪が寝癖で跳ねている。

「おはようジャスパー。もう朝ご飯の準備できているのね」

 最近、朝食はジャスパーの部屋で取っている。配膳が終わると、彼がいつも呼びに来てくれるが、最近はだいたい寝間着のままだ。

 初めの頃は着替えて髪の毛も整えていたが、慣れて気がゆるんだのだろう。そんな部分が微笑ましい。

 恐らくだが、ジャスパーは寝起きがあまりが良くない。朝はだいたい眠たそうで、金の瞳が三分の一程しか開いていない。

「そういえば、アイリーン。すっかり自分で髪が結えるようになったんだな」

「ええ。ヴァラさんに教わったの。まだあまり上手ではないけど、実際に自分でやってみたら意外と楽しくて」

「楽しいのが一番良いんじゃねぇの? 上手だし可愛いよ」

 そう言って彼はアイリーンの長い髪を掬い上げて口付ける。

 そんな所作をされると、妙に気恥ずかしい。しかし、寝間着と寝癖頭でも妙に存外様になっているので何だか面白い。

「ふふ。ジャスパーは寝癖を直さないとね。それも可愛いけど」

「言うようになったなぁ……俺の女神様は」

 そんな風に言って彼は髪を掻き分けると、ふと視線をアイリーンの手元へ向けた。

「……ん、それ何?」

 日記を指摘された。アイリーンは内心気まずく思った。

「言ってなかったかしら、日記よ。ジャスパーに連れて行って貰った場所の事とか書いているの。あとはその日の体調の事とか、気になった事のメモを少し」

 間違った事は言っていない。しかし『やるな』と言われた夢の内容を記録している事は言えなかった。

 何か言及されるだろうか……と思ったものの「充実しているならよかった」と言って軽く笑むだけだった。

 何も言われない事に、アイリーンは少し後ろめたく思った。

 つまり、それだけ自分を信用しているのだと窺える。

 白状すべきだろう。けれど、これだけは止めたくない。自分が役に立ちそうな事なんて数少ないのだから……。

 アイリーンは伝えようと唇を開くが、彼が次に口を開く方が早かった。

「さぁて飯にするか。部屋おいで」

 伸びをしつつそう言うと、彼は隣部屋に向かってきびすを返した。

 アイリーンは急ぎ引き出しにノートをしまい、先に歩き出した彼の後を追った。


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