一瞬にして視界の端々は赤黒い
『どうしてこんな事に! 酷いよ、なんとか言ってよ!』
『こんな筈じゃ……なかったのに』
『────ごめんなさい、許してなんて言えないわ』
鼓膜を突き破りそうな程に震える少女の声にアイリーンは目を
すぐ隣にいる筈なのにジャスパーの声が遠い。
苦しい。息が詰まる。
アイリーンの額には汗が浮かびあがり、ツゥ……と雫が喉を滴り落ちる感触がした。
酷い頭痛に卒倒してしまいそうになるが次第にジャスパーの声が近くなり、アイリーンはハッと我に返った。
「おい、大丈夫か!」
目の前にあるジャスパーの顔は随分と切羽詰まっていた。
倒れそうになった所を抱き留めてくれたのだろう。自分は彼の腕の中にいた。
「ごめんなさい。いきなり、私……」
頭痛の余韻がほんの僅かに残っているが、身体のどこにも異常はなさそうだ。
節々が痛まないので侵食が起きた訳でないらしい。アイリーンはゆっくり立ち上がろうとするが、彼の手はそれを阻む。
「部屋でゆっくり過ごした方が良いかもしれない」
「平気よ……ちょっと立ちくらみがしただけなの。折角連れてきてくれたもの。あとほんの少し花を見ていたいわ」
先程聞いたものを言って良いか分からなかった。
言えば余計な心配をかける。
それに、どう説明して良いか分からない。
「少しの時間で良いから、どこかに座りたいわ。そうすれば大丈夫」
気まずくて目は見れなかった。
すると彼は何も答えずにアイリーンを抱え上げた。
「……まって、ジャスパー。私、歩けるわ」
「ごまかすな、今の何だよ。本当に立ちくらみか?」
その声色にアイリーンは肩を震わせた。以前屋敷を訪れたリーアムを叱責した時のよう、強い怒気を含んでいたからだ。
「どうして怒るの?」
訊くが彼は答えない。無言のまま、足早に薔薇の小道を進んでいく。
辿り着いた先は薄紅の蔓薔薇が絡みついた東屋だった。
ジャスパーは丁寧な所作でベンチにアイリーンを下ろすなり、正面に屈んでアイリーンを真っ直ぐ睨み据える。
「なんで怒っているかって? 明らかに取り繕った嘘を吐いたのが分かったからな」
「え……そんな」
「態度で分かるんだよ。初対面の時から思うけどな。アイリーンは表情にも態度にも出やすいから、すぐ分かるんだよ」
「でも、その……」
説明しづらい。
それになぜ彼がここまで怒るのか分からず、アイリーンは困窮した。
怒った彼は怖いと思った。表情が違い過ぎる。
明らかにいつもの彼ではない。
自然と目頭が熱くなり、今にも涙が溢れそうになり勝手に身体が震え始める。絶えきれずジャスパーから視線を逸らすと「ごめん」と詫びが入った。
「強い言い方して怖がらせたなら謝る。……侵食がゆるやかになるとはいえ、石英樹海の外にいようが命に関わる呪いに変わりない。不調はなるべく言える範囲で言って欲しいんだ」
膝で拳を握りしめるアイリーンの手の上にそっと手を重ねて、ジャスパーは穏やかに続けた。
「ただな。心配をごまかして軽くあしらわれたのは腹が立った。多分それ、誰にやっても失礼だと思う。とはいえ怯えさせるような叱り方は違うし、悪かったと思う」
ごめん。と、もう一度詫びられて、アイリーンは首を横に振る。
しかし、やはり説明しづらかった。
「……女の子の声を聞いたの。初代の女神だと思う」
言葉にすれば自然と涙が溢れた。正面に屈むジャスパーは手を伸ばし、掬うように涙を拭う。
「前に、夢を見たって言ったけど。あの後も何度も夢を見るの。同じ声……間違いなくシャーロットの声よ」
「シャーロット……」
ジャスパーは眉を寄せ復唱する。
「声がした途端に頭が痛くなって苦しくなったの。だけど今ので侵食が進んでいる訳でもないし。身体に異常はないの。頭痛だってもう良くなっているわ」
真っ直ぐにジャスパーを見て言うが、その表情は涙で歪んでよく分からない。それでも、気難しい表情をしている事は分かる。
それがやけに不安を煽り、アイリーンの瞳から止め処なく涙が溢れた。
「ごめんなさい……私ジャスパーにとても失礼な事をした」
嫌わないで。と嗚咽まじりに出た言葉の後、直ぐさまに正面から包み込まれるように抱き締められた。
「馬鹿だな、嫌いなら心配なんてしない。いいか? 嫌いだからって叱る訳じゃない。アイリーンは心配し過ぎだ」
全く泣き虫な女神様だな。とため息まじりに言われるが、その言い方は極めて優しかった。
「ごめんなさい……」
もう一度詫びると「俺も悪かったよ」と彼は抱き締めたままアイリーンの後ろ髪を優しい手つきで撫でた。
やはり、こうして彼と触れ合うと途方もない幸せな気持ちに包まれる。
過剰に求めるのは何だかはしたないが、今はこうしていたい。
アイリーンは彼の背に腕を回すと、それに答えるようにジャスパーは抱き締める力をやや強めた。
……願わくは、彼の言うように明日も明後日も来年だって傍にいたい。一緒に呪いを乗り越えたい。今生きている事、恋する幸せを噛みしめてアイリーンは瞼を伏せた。
※
(誰にも見られていないとでも思っているのかしら……)
東屋で抱き合う男女の姿は絵になるが、これが憎い女だと反吐が出る。
確かにアイリーンは美しい。
自分とは違って、そばかす一つもない白い肌に亜麻色の長い髪も綺麗だと思う。女神と呼ばれるに相応しい程に美しい少女だ。
しかしだ。この美貌は自分がこれまで手塩にかけて創り上げた
……何もできぬ女神の面倒を見るのが女従者の勤めだから。
だが、いくら丁寧に手入れしようが憎い事に変わらなかった。
なにせ、この女が存在するから自分の人生全てが台なしだ。
たまたま庭園に足を運んだら、あの二人がやって来た。
公爵の屋敷なので彼が来るのは仕方ないが、あの女は見えない場所でメソメソと引き篭もっていれば良いのにと思う。
そう思った途端、息苦しいほどの不快感が押し寄せた。
庭園の影で二人を睨むサーシャは翡翠の瞳をジトと細め、心底煙たそうな顔をした。
(馬鹿は気楽でいいわね……あの愚図、どういう神経で生きているのかしら)
──恐れ敬いあがめられる現人神らしく、あの女が偉そうで隙もない程に
そう思いつつ一つ舌打ちを入れると、サーシャは静かにその場を去った。