ジャスパーと夜の散歩に出掛けて数日経った。
あれから侵食は起きていないが、その日を皮切りにアイリーンは妙な夢を屡々見るようになった。
二度目の夢は……リーアムに似た従者とサーシャに似た侍女の姿があった。
青い瞳をたたえた中性的な顔立ちも剣を携えた姿、背格好も彼に瓜二つ。髪の長さは違うが、呆れた時の目を細めた表情も彼のそれと同じ。
それはサーシャに似た侍女も同様で、立ち振る舞いこそ違えど、背格好含めて表情や仕草までよく似ていた。
夢の内容はやはり優雅なものだった
見事な花々が咲き乱れる庭園を歩んでいる夢や、木漏れ日溢れる東屋で風の精霊たちと戯れる夢。また別の日に見たものは、どこか既視感のある聖堂の中で祈る夢。
夢の中に出てくる場所は、室内の間取りや外の風景など……どこもかしこもアイリーンのよく知る場所に似ていた。
(恐らく全て初めの女神の視点、神殿の昔の姿かしら)
羽ペンを握ったアイリーンは、その詳細を細やかに綴っていた。
──神殿は今と違って、とても煌びやかだった。
入ってすぐの広間の頭上には自然霊と花々を描いた壮麗な天井画が描かれており、四つシャンデリアが煌々と煌めいていた。
シャーロットと呼ばれた彼女の部屋は、自分が暮らす女神の間ではない。
封鎖の理由は、石英の侵食を著しく受けており倒壊の危険がある程に不安定な状態になっているからだ。
危険ならば取り壊せば良い。とはいえ、神殿に関係者の殆どが老人だ。力仕事はできない。神殿は基本的に石英樹海の住人の立ち入りを禁止している。なので、危険な場所だろうと今も尚、取り壊される事はなかった。
(とは言っても、私は……余計な関心を持たない為に知らない事が多いだけ。リーアムやサーシャならあの建屋の事を知っているのかしら)
アイリーンは黙考する。
しかし、二度も三度もこんなによくできた夢を見るものだろうか。まるでヒントのようだ。
これはきっと、呪いを解く為の希望が舞い降りた気がしてならない。
この夢はいつか役立つかもしれない……。
そう思ってアイリーンは夢を見る都度ノートに内容を記すようになった。
だが、ジャスパーはこの件にあまり良い顔をしなかった。
事実、夢という時点で不確かで説明しようがない。
しかしだ、自分たちは意味不明な呪いの当事者だ。
それに、妖精や精霊などの常人が見る事もできない自然霊たちを目視できる。だからこそ、不可思議を自然に信じられた。
どうしてダメなのか。
それを訊けば、彼は意外な言葉を返してきた。
……夢を記す事は精神を蝕む危険があるかららしい。
そもそも、夢を見ている時点は睡眠が浅くなっている状態らしい。
身体は休まっていても頭は働いたまま。疲弊すれば悪夢を見る事も増えるそう。
細やかに記し続ければ、夢の記憶は脳裏に鮮明に焼き付くらしい。
まして恐ろしい夢は爪痕のように残り続け、いつまでも忘れられなくなるそうだ。
最悪の場合、夢と現実の狭間が分からなくなる。
──それが〝精神を蝕む危険〟らしい。
それを聞いて、アイリーンは拍子抜けした。
そんな事で。としか思えなかったのだ。
そもそもだ。夢の内容は自分の事ではない。未来に起きる恐ろしい予知夢でもなく、誰かの過去の記憶。過ぎた出来事に違いないので、恐ろしく思えなかった。
夢が精神を蝕むだなんてありえない。心配し過ぎだろう。ジャスパーはどこか過保護だ。
少し後ろめたいが、アイリーンは記すのを止めようと思えなかった。
(……きっと、いつか役立つ、何か大事な事を知れる筈)
アイリーンは先程見たシャーロットの幸せな記憶を書き続けた。
その日の午後、ジャスパーに庭に行こうと誘われた。
何やら薔薇が見頃を迎えたそうだ。
天気も良いから、今日は外でお茶でもしないかとの提案で、アイリーンは快諾した。
その庭は想像を超える程に立派だった。
──斜面を切り崩し、すり鉢状になった庭には数多の花々が植えられていた。
最下層の中心部には蔓薔薇が絡んだ東屋が佇んでおり、薄紅の花片を綻ばせている。
中庭でさえ手入れが行き届いて立派なのに、まさか庭園まで。
アイリーンは花々の織り成す絶景に唖然としてしまった。
石英樹海には薔薇はおろか、これほどまでに輝かしい緑はない。薔薇らしき花や多くの植物はシャーロット視点の夢の中で見たが、実物の優美さは格別だった。
夢の中では知れなかった事だが……こんなにも甘い香りがするのかと、アイリーンはうっとりとした。
しかし、意外に思ったのは花の色だ。
「薔薇って私の瞳の色みたいに……淡い薄紅ばかりだって思っていたわ。赤に白、紫色……それに黄色まで!」
思わず声を張り上げてしまうと、ジャスパーは頬を綻ばせる。
「俺も詳しくは知らないが、薔薇って千だか万の品種あるらしい。見ての通り、色は多種多様。花片の大きさも違えば、秋冬に咲く品種もあるらしい」
非常に興味深い。歩みながらアイリーンはじっくりと薔薇の花々を観察した。
自分にとって馴染みのある色のあるものといえば、やはり鉱石だが薔薇も石に負けず劣らず美しい。
よく見ると植えられている植物は薔薇だけでない事に気が付いた。
株の根元にはベル状の花をたくさんくつけたジギタリスや、石英樹海の湖畔で稀に見かけるラベンダーやゼラニウムなどの馴染みのある花がいくらか綻んでいた。
「色んな花が育てられているのね。石英樹海に自生しているのもある。薔薇も綺麗だけど他もとても素晴らしいわ!」
思ったままを言えばジャスパーはピタリと立ち止まり足元を見る。
「……ラベンダーだのゼラニウムのハーブ類って虫が嫌う匂いを発するから薔薇と一緒に栽培しているって確か庭師が言っていた。それにジギタリスは反日陰で育つから薔薇の根元に……言われてみるとそうだよな。上手い事、造っているな」
──俺、草花に興味が薄いから、今日まで気付きもしなかった。なんて、自嘲気味に笑むので、アイリーンも釣られて微笑んだ。
「ジャスパーの一番の興味って、やっぱり設計や工学関連の事かしら?」
「まぁそうだな。腐っても変態だしな」
……どういった事だ。
アイリーンが固まると、ハッと我に返ったジャスパーは違う違うと顔の前で両手を振る。
「ああ、いや違う。技術者って事」
暗喩や自虐でそう言うんだ。と、彼は付け添えるが、何が何だか分からない。
「へんたい、ってそうなの?」
「復唱しなくて良い……」
女の子が言っちゃダメな卑しい言葉だ。なんて焦って言うので、アイリーンはそれ以上追求しなかった。
恐らく下品な言葉だろう。ならば聞かない方が良い。
それでも話の続きが気になって首を傾げれば、ジャスパーは困ったような照れた顔をする。
そんな表情がこれまた新鮮だ。
しかし、さすがにジッと見られるのが居心地が悪かったのか、彼は視線を逸らし、アイリーンの手をひったくるように握る。
「え……どうしたの」
突然の手を握られて驚くが彼は何も答えずにゆっくりと歩み始めた。
ジャスパーが再び口を開いたのは、ややあってからだった。
「まぁさ。アイリーンに言われて気付いたが、視点を変えるだけで物事の
見え方っていくらでも変わるんだなって思ったんだ」
「そう……なの?」
思っただけを言っただけだが……。
彼は「そうだよ」と 感慨深そうに続けた。
「考え過ぎかもしれないが、庭は小さな世界。庭師に植えたものにむだなものなんて何一つない気がした。主役の薔薇は当然だが、虫避けのハーブ然り、日陰を好む花にしたって。どの種が欠けても景観ががらりと変わる筈。工学にも似たような部分があってな……精密世界の中で何もかもが役割を担っている。むだは一切ない。だが、庭は庭で精密世界に負けぬ部分がある。意外と感性を研ぎ澄ませるもんだな」
──狡猾そうと思えば優しく笑む。ふざけていると思っても、生真面で神経質そうな一面を覗かせる。
彼は本当に様々な顔を持つ。まさにジャスパーの名に相応しい。そんな風にまたアイリーンが思うが、つい最近自分も似た事を考えたばかりだと気付いた。
「……と、何だか絶妙に退屈な話になっちまったな」
ややあってジャスパーは苦笑いで締めくくるが、アイリーンは首を横に振った。
「とても楽しいわ? でも偶然……私も最近似たような事を考えていたから」
「と、いうと?」
「サーシャの言葉に傷付いて部屋に篭もっていた時、中庭で忙しなくしている使用人の方たちを見て思ったの。誰もが必ず役目を持つ。そんな風に言うと、このお庭の中の花々も機械仕掛けも、世界と人みたいって思えたの」
むだなんてものは何一つない。自分だって、きっと生まれてきた意味や女神としてこの世に生まれた意味がある筈だ。
心の中でそう唱えた途端──こめかみに鮮やかな痛みが走った。