……しかし彼は今、自分に対して〝強い〟と言った。信じられない言葉にアイリーンは呆気に取られてしまった。
自分は落ち込みやすい。
その上、些細な事に傷付き気にしやすい。
司祭やリーアムに怒られただけで落ち込み、サーシャには「ウジウジして」「もういい加減にしてちょうだい」だの叱責された回数は数知れず。
そんな自分が〝強い〟と言われる日が来るとは誰が思うものか。
「……私って強いんですか?」
「どう考えても強いだろ。さすがに鋼鉄の心とは言わないが、岩みたいに硬い精神力を持っていると思う。死ぬ事を受け入れていたくらいだ。俺より強い。多分な見方によって違う。強さってさ、泣かない事でも弱音を吐かない事でもないんだよ」
──心根の強さや志の強さ、そして軸を折らない事。そういうものだと思う。自嘲の吐息まじりにジャスパーはそう付け添えた。
「……私、いつまでもメソメソして調査にも参加できずに、自分が情けないって思っていたの。むしろジャスパーには沢山助けられて、寂しい気持ちはなかったわ」
このひと月も朝夕の食事をいつも一緒だった。
話す言葉は少なくとも、パンを切り分けてくれたり、椅子を引いてくれたりと些細な気遣いが嬉しかった。その旨を伝えると、彼は照れくさそうに笑んで、やんわりとアイリーンの手を握りしめた。
「女を尊重して優先させる。アイリーンが女神云々なんて関係ない。それは男の俺がして当たり前の事だ」
今度の笑み方はいつも通り。どこか狡猾でジャスパーらしいものだった。
「そうなのね。分かった。じゃあ公爵様。私を星降る空の下へ連れ出して」
少しだけ悪戯気に言えば、彼は傅き「女神様の仰せのままに」と手を取ってニタリと笑んだ。
屋敷を出て数分後。アイリーンはジャスパーの背に必死にしがみついていた。
飛行二輪は二度目になるが、耳当ての付いたヘルメットを被っていようが、この乗り物はやはり耳が痛くなる程に喧しかった。
しかし、二度ともなれば幾分か余裕が生まれるだろう。
石英樹海を出た時に景色を眺める余裕はなかったが、今はほんの少しくらい景色を眺める余裕はある。
下界はモクモクと煙を上げる工業地帯が広がっていた。
まるで宝石を鏤めたようにガス灯の橙の光が並んでおり、運河には船が浮かんでいるのが見える。また街外れには煙を巻き上げて随分と長い乗り物が走っている。
あれが俗に言う汽車──貨物列車だろうか。アイリーンは過去の手紙でジャスパーから教わった情報を思い出しつつ、下界を一望する。
──満月前後以外は何もかもが闇に包まれる石英樹海と違う。人の創り上げたものばかりで成り立つ世界は随分と賑やかだと思った。
これが本当に同じ世界か。と、妙な感動さえする。
だが、まじまじ見てしまうととなかなかに高い。
恐らく、神殿最上階の自分の部屋よりは高いだろう。落ちればひとたまりもない事は考えずとも分かり、急に怖くなってアイリーンは彼の腰に回した手の力を強めた。
「怖いか?」
排気音に負けじと、がなるように言われてアイリーンも声を張り上げる。
「大丈夫よ!」
伝えれば、彼は後方のアイリーンを一瞥してニッと口角を引き上げた。
彼はゴーグルもしているので、表情は鮮明に分からない。それでも、どことなく嬉しそうな顔をしているのが分かり、アイリーンは釣られるように笑んでしまった。
そうして幾何か──工業地帯を抜け、牧草地を抜け、森を抜け……小さな街を抜けた後に空気の匂いが妙に塩辛い匂いになってきた。それを合図に見えたのは淡い月明かりの元でどこまでも続く大海原だった。
海上で高度を下げて旋回し、やがて飛行二輪は砂を巻き上げ着陸した。
「ほれ着いた」
ジャスパーは飛行二輪のスタンドを蹴って降りると、アイリーンを抱えて丁寧な所作で砂の上に降ろす。
ヘルメットとゴーグルを取ったアイリーンは、波の音がする方を見た。
海の上には新月から間もない細い三日月が浮かんでいる。
頼りない光ではあるが、波打つ水面には細い金色の道ができており、どこか儚さのある美しい光景だった。
しかし決して侘しいものではない。
まるで宝石箱をひっくり返したように、紺碧の空に輝く白銀の星は海の向こう側の方まで散らばっている。
飛行二輪で見上げた時も手が届きそうと思えたが、高度が低くとも手が届きそうに思えてしまう。
「海……。すごい、本当に広い」
素直に出たアイリーンの感想に隣に来たジャスパーは「はは」と軽い笑いを溢す。
「世界中に広がっているから確かに広れぇよ」
世界中。その言葉だけでも感嘆として胸がいっぱいになる。更にアイリーンを興奮させたのは、頭上から海上に向かって流星が走ったからだ。
「わ、また流れた!」
「屋敷からは南南西の方角。こっち側の海でドンピシャ。大正解だったみたいだ」
「ステキだわ……ジャスパー本当にありがとう!」
連れてきて貰えて幸せだと、良かったと。感極まって言うと、彼は照れくさそうに頬を掻く。
「世界は広れぇからな。砂だらけの場所もあれば氷に包まれた大地もある。息を飲む程の景色はいくらでもある。俺はアイリーンにこれからそんな世界の素晴らしさを見せたいって思うわ」
「これから……?」
アイリーンは復唱し、再びジャスパーの方を向くと「これから」と念を押すように彼は言う。
「何があっても諦めないでくれって言いてぇの。〝先〟はあるものだって思って欲しい。前も言ったが、二百年後の……俺たちの次の世代はあっちゃいけねぇと思う」
そう言うなり彼は浜辺に腰掛けて、地面を叩く。
「ほれ。立ち話もなんだろ? 座るでも寝そべるでもして星でも見ようぜ?」
そう言われるが、借り物の服を汚す訳にもいかない。戸惑った顔をすれば「仕方ねぇな」と彼は立ち上がるなり、アイリーンをひょいと抱え上げた。
「え……?」
彼が何をしようとしているのか理解できず、アイリーンが目をしばたたくも束の間──ジャスパーは砂の上に腰を付けて膝の上で横抱きにアイリーンを座らせる。
「どうせ〝服が汚れたらどうしよう〟とか気にしているだろ? それはもうアイリーンの服だ。気にしなくて良いのに」
だからと言って普通膝に座らせるだろうか。と……思うが、今更断れない。それでも殿方の膝に座るなど子どもでもないのに。
「……でも私、重たくないかしら。もう身体もかなり結晶化しているもの」
「いや全く。だって神殿から連れ出す時にアイリーンを抱えて壁を降りているだろ? それに俺、錆の侵食の所為で尋常じゃ無い力持ちなんだわ」
「はぁ……そうなのね?」
そんな事、初耳だ。アイリーンは不思議に思って彼を見つめると、プイと視線を逸らされた。
「それ、嘘よね……」
「事実だよ。ただ自分がやっておいて、思ったより顔が近けぇなと思っただけ」
……なんか恥ずかしくなった。とボソボソと彼が言うので、アイリーンも今更のように彼の近さを思い知り頬が熱くなった。
「や、やっぱし降りるわ。立っていても大丈夫よ」
そうして立ち上がろうとするが、腹にぎゅっと手を回された方が早かった。これでは全く身動きが取れやしない。
「……ちょ、ちょっと、あの。ジャスパー?」
戸惑いつつ彼を呼ぶが、更に腕の力を強められるだけで……益々身動きが取りにくい。ビクリともしないので、確かにこれはなかなか力があるだろう。
少し間を開けて「だめか?」と訊かれて、アイリーンは彼の顔を見るなり呆然としてしまった。
これもまた見た事もない表情だったからだ。少し戸惑ったような、かつ自信なさげとも言うのか……。
「どうしたの?」
不安に思って訊いてすぐだった。
「……好きなんだよ」
ジャスパーの言った言葉にアイリーンは目を丸く