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23 星の降る夜

 会食を終えた後、アイリーンは部屋でゆったりと過ごしていた。

 テーブルにはカモミール茶に、粉糖がまぶされたビスケット。

 これらは〝夕食後のお茶に〟とヴァラがいつも用意してくれている。

 お茶請けの菓子は日によって違うが、アイリーンは菓子などろくに食べた事もないので、甘美な味は夕食後のささやかな楽しみになっていた。

 しかし、お茶の時間は昼十時、午後三時……そして夕食後含めて一日に三度もある。食べる量が明らかに増えた。

 太らないか……とアイリーンは自分の腹を指で突いて、吐息を溢した。

 ろくに脂肪など摘まめなく薄っぺらい。恐らくまだ大丈夫だろうが、こんな甘いものばかり食べる生活を続ければ、いつかぶくぶくと太ってしまうのではないのかと恐ろしく思えてしまう。しかし、その割に心の中は穏やかだった。

 リーアムの心の中をきちんと聞けた事が大きいだろう。

 こんなにも心穏やかな気持ちになったのは、いつぶりか。不安が薄まると身体の中に活力が戻ったような心地がした。

 外の空気が吸いたい。そんな風に思ったのもいつぶりか。アイリーンは窓辺に歩み寄りバルコニーに出た。

 窓を開けたと同時、鼻腔いっぱいに爽やかな緑の香りがした。

 あれからひと月。短い夏の始まり……六月に差し掛かる。

 外の世界の季節にはこんなにも匂いがあるものだと、アイリーンは改めて思った。

 頬を撫でる香り立つ柔らかな夜風が心地良い。アイリーンは空を見上げたと同時に感嘆とした息をついた。

 雲がない夜空は金や銀を散らかしたように数多の星が煌めいている。年中分厚い雲に覆われた石英樹海では星空なんてあまり見られない。なので、こんなに鮮明な星空をきちんと見たのは初めてでアイリーンは呆気に取られてしまったのだ。

 その時だった。丁度視界の端にヒュンと光の筋が横切った。

「今のって……」

 流星か。生まれて初めて見た。アイリーンは目を丸くして、先程流星が通った場所を見つめていればまたもや、光の筋がスッと横切る。

「え……すごい!」

 思わず柵に手をかけて身を乗り出して夜空を見上げたと同時、隣部屋の窓が開く音がした。

「おん。何してんだ?」

 隣のバルコニーからジャスパーが顔を出す。

 しかし、彼の姿をはっきりと見た途端にアイリーンの頬には夥しい熱が攻め寄せる。なにせ、上半身裸だからだ。

「どうした? そんなに身を乗り出したら危ねぇぞ」

 そう言うやいなや、彼はぱっと目を丸くして「あ、流れ星」なんて言うのでアイリーンは慌てて視線を戻すが、見る事ができなかった。

「そうなの、星を見ていたの。流れ星二回見たから……」

 僅かに彼に視線を向けるが、やはり落ち着かない。

 ……素肌を晒した異性など神殿の彫刻でしか見た事もない。

 生身の人間で見るのは初めてだ。当たり前だが自分の身体付きと全く違う。彫刻よりは華奢だが、それでも筋肉が薄く乗っていて頼りなさげという訳でない。

 しかし、なぜに脱いでいるのだ。恥ずかしい。真っ赤になったアイリーンを不審に思ったのだろう。ジャスパーはバルコニーの柵に頬杖をついて向き合った。

「どうした? なんかよそよそしいな」

「あ、あの。服を着て欲しいです。そもそもどうして脱いでいるの……」

「あーね……そういう事ね」

 何がそういう事だ。アイリーンはいぶかしげに眉を寄せる。

「悪い悪い。着替えの最中に窓を開ける音が聞こえて、どうしたのかって思ってな。というか、リーアムの着替えとか見た事ねぇの?」

「な……な、ないわよ!」

 破裂しそうな程に真っ赤になって叫べば、彼は俯きたちまち肩を震わせる。しかしそれも束の間今度はゲラゲラと大笑いした。

「はは、アイリーンは可愛いな。興味あるなら近くで見るか? 錆の侵食は綺麗じゃねぇけど。部屋も繋がってるからそっちに行ってやろうか?」

 戯けた調子で彼は言うが、アイリーンはブンブンと首を横に振り乱した。

「──結構です!」

 慌てて叫んだ声は情けない程に裏返っていた。

 こんなに大きな声を出したのは生まれて初めてだ。存外喉の奥が痛くなるものだと思いつつ、アイリーンはプイと彼から視線を逸らしてすぐ、唇に手を当てた。

 そうだ、もう夜だ。まだ早い時間なので、誰も寝ていないだろう。それでも大声を出せば何事かとヴァラが心配して部屋に来るかもしれない。

 それはリーアムも然り。夕飯の席の話を聞く限り、彼も心配するに違いない。

 しかし、ジャスパーは半裸だ。

 今の状況を見たら変な誤解をして、またもジャスパーといがみ合う関係になりかねないとは思えた。

 ……なにせ、リーアムは会食の席でジャスパーに馬鹿とさえ言ったのだ。

 そんな思考に更けていれば、彼は「また流れた」なんて言うので、アイリーンは空を気にしつつ複雑な顔をする。

「もう……ジャスパー。服を着て」

 本気で落ち着かない。しかし、彼ときたら半ば自分の世界の中か、夜空を見上げて首を捻っていた。

「やけに流れる頻度が多いな。流星群でも来てるのか?」

 よく分からないが……。なんて付け添えて、再び彼はアイリーンに目を向ける。

「アイリーン、まだ眠たくないか?」

「ええ、さすがに」

 ここ最近昼に惰眠を貪ってしまっていたので、眠りにつくのは深夜帯になっていた。今日も彼の部屋で眠りこけていた程だ。全く眠くない。

「よし。じゃあ、今すぐ着替えろ。五分後に部屋に行く。外に行くぞ」

「え?」

 アイリーンが目をしばたたくが彼は嬉しそうに口角を引き上げる。

「最高の場所で流星を見に行こうぜ」

 分かったならさっさと着替えな。と告げるなり、ジャスパーはきびすを返して部屋へ戻って行った。

 戸惑う余裕などなかった。

 のろのろとしていれば、彼が部屋に来てしまう。アイリーンは慌ててクローゼットの中からブラウスとレースのふんだんにあしらわれた濃紺のジャンパースカートを引っ張り出した。

 パーティションの向こうからジャスパーの足音が聞こえてきたのは、着替えを終えて間もなくだった。

「おまたせ……」

「そんなに待ってない。リボンが縦結びになってるな……」

 慌てて着替えて出て来たので、ブラウスのリボンがきちんと結べなかった。ジャスパーは「じっとしてな」と言ってリボンを丁寧な所作で結ぶ。

 ヴァラに手伝って貰うのとは違う。何だかそれが無性に恥ずかしかった。

「これで良し、可愛く結べた」

 そう言って間近で微笑まれるので、アイリーンはぽっと紅潮する。

 自分でまともにリボン結びもできないのは恥ずかしいのもあるが、こうも近くに彼の顔があるのが照れくさい。もっと近くにいた事だってあるのに。

「……ありがとう」

 照れつつ言えば、彼は「いいってことよ」と、いつもの軽い調子で返事した。

 しかしながら、今の彼の装いが見る限り飛行二輪に乗るのだろうと即座に察した。毛皮付きのジャケットを召している時はだいたいそうだ。それに、首に下げているのはゴーグルだ。

「結構遠くまで出掛けるの?」

 訊くと彼は「いいや」と首を横に振る。

「そこまで遠くない。アイリーンもずっと引き篭もってたしな。それにここに来た時に何か行きたい場所や食いたいものあれば言えって言ったのに、無欲なのかなんなのか……本当に何も言わねぇし」

「でもジャスパーだって暇ではないでしょう。明日も仕事が……」

 今から出掛けて彼の翌日の仕事に支障がないのか。

 そもそも自分が外に出たのは呪いを解く為だ。

 散々時間をむだにしてきて言えたものでないが、遊んでいる時間があって本当に良いのだろうか……。

 そんな疑問で首を傾げる傍らで彼はクローゼットから濃紺の外套を引っ張り出しアイリーンに羽織らせる。

「俺は領主だし外仕事はサボっても平気だ。というかそんな頻繁に来るなって言われるくらいだし、問題ない」

「……そう、なの?」

 領主だし。それを言われたら「そうなんだ」としか言いようもない。

 そもそも彼の立場は領地の中で一番権力があるという事しか分からない。困惑した面を浮かべると、彼は優しい笑みを向ける。

「あとな、俺。アイリーンに一つ詫びたい事があるんだよ。傍にいるだのなんだの言った癖にアイリーンが落ち込んでいる時にあまり気の利いた事ができなかった事は本気で悪かったなって思っている」

「……え?」

 予想外の告白だった。まさか彼がそんな風に考えていたとは。

 アイリーンは「そんな事ない」と、首を振ればジャスパーは一つため息を溢す。

「アイリーンは自分の運命を受け入れていた程に心が強い。だから、放っておいてもこの子は必ず前を向けるのは分かっていた。だけどな……それでも俺ができる事くらいあっただろって思う」

 ──手段が浮かばなかった。だから工場の仕事に出て無心になって考えた。けれど、アイリーンが立ち直った方が早かった。

 ジャスパーはそう語ると、今一度詫びを入れる。

 どこか物憂げで、彼にしては珍しい表情だった。

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