従者たちがジャスパーの屋敷に来て一ヶ月近くが経過した。
ヴァラの話によると、サーシャは調査に協力する旨を言ったものの、
それはアイリーンも同様だった。
あんな事を知った手前、従者たちに会わす顔がなかった。
それを汲み取っているのか、ジャスパーもヴァラも何も言わない。それでも、何もできぬ自分に後ろめたさが日々強まっていた。
──石英樹海から出て、自分は何をしたかったのか。自由と未来を求め、呪いを断ち切る為に彼の手を取った筈だ。
だが、現状は何もできていない。このままではいけない。そう思うが自分が何をすべきか分からないままだった。
疫病神と呼ばれた事が焦げ付くようにヒリヒリと残っているし、ジャスパーに唇を貪られた事も混じり合って、心はしっちゃかめっちゃかに散らばったままだった。
だが、彼のあの行動のお陰も少なからずあるだろう。
サーシャの辛辣な言葉は僅かに薄れていた。
いまだに唇を食む行為の意味がよく分からないが、きっと背徳的な行為だったのだろうと察する。
……結晶に侵された身体とはいえ、アイリーンには月経がある。
つまり子を成せる身体だ。なので、当たり前のように子を成す方法は心得ている。
本来の行為と繋ぐ場所は違うにしても唇と唇。〝粘膜同士を接触させている〟時点で淫靡な事と想像できた。
それにジャスパーのぎょっとした態度や照れた態度、極めつけには謝られた事が何よりもの証拠だろうと思う。
しかし、なぜ自分はこんな身体の癖に月経があるのか。
何度考えたかも分からない疑問をアイリーンはぼんやりと浮かべた。
侵食は四肢を中心に側面から内側に目掛けてジワジワと広がる。胴体に広がるのは本当に最後の時だろうとフローレンスも手紙の中で語っていた。
気怠くなるのでこの周期は憂鬱だが、自分が血の通った人間と実感できるので嫌ではなかった。ある意味自分の死期の予測もできる。恐らく、月の触りがなくなれば、いよいよ死期が近くなると想像できた。
しかしだ。今回の件で自分はジャスパーを本当に好きになってしまっただろうと思った。
文章でのやりとりとで勝手に好意を抱いていたが、実際会って失望。それでも本当の彼を知る程にどんどんと惹かれている。
程良い距離感でいつも気に掛けてくれて、温かで明るい笑顔を向けてくれる。
元々、気の利いた性格かもしれないが、彼が自分を好きなように錯覚してしまう。
(だって私……可愛いなんて言われた事なんてなかったもの。嫌じゃなかった。唇を合わせたあの時だって……)
それどころか潜在意識で〝ずっとこうされたかった〟ように思えてしまう。
はしたない。そうは思うが、何度思い出したって頬が熱くなる。アイリーンは自分の唇を触れて、熱っぽい息を吐く。
(だけど、何だか救われた気持ちになる……)
光の溢れる窓辺に歩み寄り、アイリーンはカーテンを開いた。
アイリーンに宛てられた部屋の真下は中庭だ。
しかし今日は妙に賑やかだった。
そこにはヒューゴーと二人の男使用人の姿があり、せかせかと荷物を運んでいる姿が映った。また、庭師といった風貌の男もいて丁寧に樹木の手入れをしていた。
ぼんやりと眺めて初めて気付いたが、庭を行き来する使用人は意外にも多かった。その中には自分やサーシャと年端も変わらなそうな娘たちの姿もある。
荷物を運ぶ者。掃除道具を持っている者。それに厨房の者だろうか。運ばれた野菜を吟味する真っ白なコックコートを纏った者もいる。
それぞれが自分に課された仕事をして役目をきちんと果たしている──まるで小さな世界の見取り図のようだとアイリーンは思った。
ジャスパーもそうだ。呪いを解こうと考えつつも、領主としての自分に与えられた使命を勤しんでいる。皆、自分のやるべき事をきちんとこなして生きているのだ。
その途端にアイリーンの中にあった心の中の迷いは晴れた。
(……ここで腐っていても仕方ない。私だって自分にできる事をしないと)
神殿が言った半年の猶予は長いようで短い。
──動かねば変わらない。心で呟いてアイリーンはジャスパーの部屋へ向かった。
役に立つか分からないが、フローレンスの手紙の内容を細やかに教える事だってできるし、妖精や精霊の自然霊たちの知識、その信仰の事など知っている範囲の事は何だって伝えられる筈だ。
なにせ自分は自然霊と会話ができる。
そこらへんにいる精霊や妖精に話を聞いてみてもいい。
それに、あの天井画は頭にこびり付いているので、何が描かれているか細部まで伝える事はできる。
思ったよりやれる事はある。動かねば──。
アイリーンは今一度意気込んだものの、通路を抜けた先には彼の姿はなかった。
ジャスパーの部屋は自分に宛てられた部屋と間取りや調度品の配置もほぼ同じだ。
違う点は、窓辺に大きな机が置かれている事。
その上には夥しい数の書類や設計用紙が置かれていた。
ふと、設計図を覗き込むと飛行機の翼と思しき構造設計が幾つも書かれていた。
自分が恋した彼そのものだ。そう思うと胸の奥が妙に高鳴る。
それにここは彼自身の部屋。抱き締められた時と同じ匂いがする。
──晴れた日の空気に似た香りと、柔らかさのある甘い香り。そこにほんのりと人工的な機械油に匂いが混ざっている。
ドキドキするのに安心する。不思議な感覚だと改めて思う。
(何だか落ち着く……)
彼のベッドに腰掛けて、アイリーンは彼が部屋に戻るのを待つ事にした。
これからは調査に参加する旨を言おう改めてこれまでの礼をきちんと言おう。何を言うか、自分がこの先どうしたいか……考えを纏めるが、いくら待っても彼は部屋に戻ってくる気配がない。
しかし日差しが暖かで気持ちが良い。その上、落ち着く香りに満たされたこのベッドはふかふかで居心地が良い。
彼のベッドの上で寝そべり和むのも束の間……心地良い温かさに促されて、アイリーンはうとうとと船を漕ぎ始めた。