そうして数日間は穏やかに過ぎ去り、五月なったその日──ヒューゴーが従者たちを連れて石英樹海から帰還したとの報告を朝食中に聞いた。
身支度を終えた後ジャスパーに連れられ、アイリーンは応接間に向かった。
彼の小脇には革製のバッグ。外出する訳でないのに、なぜそんなものを持っているのか分からない。アイリーンはあえて突っ込まずにいた。
そんな事よりも、アイリーンはこれからが怖かった。
自分の選んだ事とはいえ、リーアムの冷たく厳しい叱責が待っていると思うと気が気でない。それを物語るように、アイリーンの視線は様々な場所に泳いでいた。
『屋敷内では自由にしていて良い』と、到着初日に言われたが、人様の家を好き勝手に歩く勇気はない。
この屋敷にやって来て二週間以上が経過するが、アイリーンは部屋に閉じ篭もって殆どの時間を過ごしていた
──女神の一日の過ごし方。礼拝の行い方。司祭や神官の人数。神殿のしきたり。石英樹海の事など。
ジャスパーに聞かれた事に答える以外はヴァラと軽い話をする他、服の裾上げや試着など。自発的に動く事はない日々だった。
なので、部屋の外に出るのは久しい。
長くゆるやかな階段を下りつつ、アイリーンは彼の背後で頻りに周りを見渡した。
吹き抜けに吊された百合の花を逆さにしたようなシャンデリアは来た時も見たが、きっと掃除しづらいだろう。
だが、塵一つ溜まっていない。また、階段に敷かれたマラカイトグリーンのカーペットもくすんでいない。
ジャスパー本人は古びた屋敷と言ったが、隅々まで手入れが行き届いている事が目に見て分かる。
「あまり身構えなくて良いと思う。俺がどうにかするから心配するな」
前を歩む彼に言われて、アイリーンは慌てて視線を戻した。
「いいか。何を言われても、アイリーンは自分が悪いだの絶対に言うなよ? それだけは約束してくれ。俺の計算じゃ明らかに俺とあんたが有利になる」
ジャスパーは立ち止まるなり、後ろのアイリーンを見てニマリと笑む。
「約束できるな?」
念を押すように言うのでアイリーンは自然と頷いた。
しかし有利になるとは……。
ジャスパーは何を企んでいるのだろう。それでもきっと、彼が手に持つ鞄の中に何か秘されているのだろうとは想像できた。
言われたからには守る他ない。そして彼を信じる以外に道はない。アイリーンは意を固めて先を歩み始めたジャスパーの後を追った。
それから間もなく。応接間に着くとジャスパーは叩扉もせずにドアを引く。
「またせたな」
軽い調子で言って部屋に入る彼の後を付いて行けば、即座に鋭い視線がアイリーンに突き刺さった。
案の定リーアムの恐ろしい形相だった。
サーシャは顔色一つ変えずに普段通り。きっと彼女なら話せば分かるだろうとは思うが。リーアムは多分だめだ。アイリーンはまともに彼の顔を見られなかった。
緊張の糸が再び固く結ばれる心地がする。
恐怖、罪悪感が次々と胸の奥に疼きアイリーンは自然と俯いた。そうして、ジャスパーに促されて席に着いたと同時だった。
「……アイリーン様。貴女はこの男に何を吹き込まれて、そそのかされたのです。貴女は自分が何をしたのか分かっているのでしょうか」
話を切り出したリーアムの声は氷のよう、刺すように冷たかった。
「それに、なぜ貴女はお顔を晒されているのですか。装束は? その装いは?」
切り込むように追求され、アイリーンは更に深く俯いた。
今纏っている服は、ヴァラが用意したものだ。
女神装束の白装束と違い、レースのふんだんにあしらわれた焦げ茶色のロングスカートに生成り色のブラウスを合わせている。着の身着のままやって来たので着替えがないのだ。折角出してくれた服に文句など言えやしない。
「これは……その……」
「何ですか? 簡潔に説明してください」
噛みつくように言われるのでアイリーンが口籠もるが、間髪入れずに隣から呆れきった吐息が響く。
「……あんたさぁ、朝っぱらからよくもそんなに怒鳴り散らせるな。血圧は大丈夫か? 石英樹海は岩塩がよく採れるらしいからな。塩辛いものばかり食っているから血圧が高いんじゃねぇの?」
ジャスパーは不愉快そうに鼻を鳴らすと、リーアムは更に目を尖らせた。
「元はといえば貴様の所為だろう。貴様がアイリーン様に汚い手でベタベタと触れなければこんな事にならなかった!」
「は? 何も知らずに想像だけで勝手に言うようじゃ、あんた相当のクソ野郎だな」
ジャスパーは嫌味ったらしく唇を拉げて言う。元々言葉使いが悪いが、これまでの最上級な気がする。片眉を持ち上げて唇を拉げた表情も相まってやけに迫力があった。
その態度に堪忍袋の緒が切れたのだろう。
瞬く間に顔を赤くしたリーアムはテーブルを叩いて前のめりになった。
「この錆臭いリグ・ティーナ人が! いくら王族の血筋だろうが許せない! ふざけるのも大概にしろ、この人攫いが!」
「へぇ……〝人攫い〟ね。でも、その言葉で俺、すげぇ安心したわ。あんた一応アイリーンを〝人〟って認めているんだ。ほぅ」
狡猾に笑んでジャスパーは更に続ける。
「むしろさ。あんたたち、神殿側の人間はとんでもねぇ事を隠してねぇか? 女神の
──どちらが人でなしだ。と、冷たく付け添えて。ジャスパーはリーアムを真っ正面から睨み据えた。
「……それは」
リーアムの顔はたちまち強ばった。
「あんたら、多分この子に言うのも後ろめたい事を隠しているだろ。なぁ?」
ジャスパーはリーアムとサーシャを交互に見て、嬲るように問う。
それから少し間を置いて、手元の鞄を開き逆さまにした。するとテーブルの上に古ぼけた大量の手紙がバラバラと散らばり落ちる。
「アイリーンの先代に当たる晶の女神、フローレンスから寄越された手紙──前に言った証拠だ。あんたたちさ〝錆の王子〟を知っているか?」
リーアムはハッと目を
何か存じている。言わずともその証明に充分だった。
その表情を確かと見ると、ジャスパーは手袋を取って腕を捲った。
晒された錆び付いた金属質な手にリーアムは息を飲んで肩を震わせいた。片や、サーシャは一瞥すると即座に目を逸らす。
「女従者は分からんが、その反応じゃあんたは何か知っているみたいだな? 俺は別に喧嘩がしたい訳じゃない。どうして似た
穏やかにジャスパーが告げて
「……詳しくは僕にも分かりません」
元通りの丁寧な口調に戻っていた。しかし、リーアムの顔色は悪く先程までの血の気は嘘のように消え去っていた。
「錆の王子は女神の対だろうと司祭から聞いた事があります。また、それと思しいものを先代の女神が描き残しています……」
リーアムの言葉に、自然と三代目の書き残したあの絵が結び付く。
もはや明確な答え合わせだった。
「詳しくは不明です。厄災の記憶自体は語り継がれていません。貴方の力になれるかは分かりません。その自信はありません。ですが、あくまで個人の想いですがアイリーン様を死なせたくないです。自分に何ができるかは分かりませんが」
……死なせたくない。と、リーアムは今一度静かに告げた。
あの堅物なリーアムが折れた事に驚いた。
アイリーンは唖然としてジャスパーの横顔を見つめると、彼は勝ち誇ったように口角をほんの少し上げていた。
「ありがとな。それはそうと、あんたは女神が外に出ても死なない事は知っていたのか? 何か他に知っている事があれば知りたい。それと、差し支えなければあんたたちの事を教えて欲しい。何か手がかりがあるかもしれない」
続けてジャスパーが訊くとすぐ「ええ喜んで」と呆れた調子のサーシャ声が響く。