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アイリーンが眠りに落ちたのを確認した後、ジャスパーは静かに自室へ戻った。
その頃、下の階から柱時計が三つ鐘を打ち午前三時を知らせた。
いい加減に自分も寝なくては。
石英樹海から生きて帰って来た分、立て込んでいる仕事もある。さっさと寝るべきだ。そう思うがまだ眠れそうになかった。
──泣いたアイリーンがあまりに幼く見えた事、女神ではなくただの少女にしか見えなかった事。それらと一緒に悪夢のような情景が頭に浮かんだまま離れなかった。
女神以外入る事ができない祈りの間……そこで見たものは、あまりに凄惨だった。
彼女には言えなかったが、入ってすぐに複数の白骨死体が目に入った。
骨格から見るからに男と女が二人ずつ──計四体。
彼らが誰なのか……女神の墓地に行けばすぐ理解できた。
石化した女神に近くに置かれた剣と鏡。あの亡骸は女神を護り見守る従者たちのものだと想像は容易い。
女神を看取った後に自害するのか、二人の従者の最期を見届けた後、女神は聖具を持って墓地に一人向かうか。どちらが先か不明だが、正気の沙汰でない。
──鉄の塊が水に浮いて空を飛ぶ現代にこんな事があるものか。ジャスパーは目にした全てに動揺した。
間違い無く、アイリーンはこれを知らなそうだ。これは彼女が知るべき事だろうか。部外者のジャスパーは判断に困り、言えぬままでいた。
そもそもだ。この運命を従者たちは知っているだろうか。女神しか出入りできない祈りの間。そこに入ったらもう二度と出られないと……。
「俺はこれから、どんな顔であの子の従者たちを会えばいい……」
ジャスパーはこめかみを揉みつつ暗いため息をついた。
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翌日の朝食中──ふわふわのオムレツをフォークでつついたままアイリーンは大きなため息を溢した。
目の前には香ばしい香りのパンに野菜のスープ。カリカリに焼かれたベーコンや腸詰め肉。みずみずしい野菜やチーズが三種類ほど並んでおり、空腹を刺激する匂いが立ち込めている。
ここでの食事はどれも美味しい。この世にこんなに美味しいものがあるのかと感嘆したばかりだというのに、アイリーンはどこか上の空だった。
「おう。どうした食欲ねぇの?」
対面に座したジャスパーは珈琲を啜りつつアイリーンに目をやった。
「……なんかぼーっとして、頭がふわふわして」
そう答えると「寝不足か」と彼は笑う。
「そういうジャスパーも何だか疲れていません? 目の下にクマができています」
「いや? 俺は徹夜とか年中やってるから大丈夫だ」
全く大丈夫じゃない。
だが、こうも明るい調子で言われると、かえって気に病む方が彼に気遣わせてしまう気がしてしまう。
アイリーンは軽く笑んだ途端だった。
「よくありませんよ。食事と睡眠は心身の為に大切だと、私は昔から言っているじゃありませんか」
給仕をするヴァラは睨みをきかせてジャスパーを見据えた。
「え……だって、しょうがねぇじゃん……」
「だってじゃありません! 私は心配です。無茶をなされば四十まで生きるかだって分かりません。お体的にお子様を設ける事だって望める筈でしょうに!」
「それはここで言うなよ!」
こうも真っ赤になって取り乱す彼は珍しい。そう思いつつ、アイリーンは二人を交互に見ていれば──
「アイリーン様もなんとか言ってあげてください」と、ヴァラに話を振られた。
とはいえ、自分が彼をとやかく咎める筋合いもない。
それよりも、ヴァラの言葉の方に気になるものがあった。
「え、えっと。子どもを設ける事ができるって……ジャスパーは結婚? する予定があるのですか。将来を約束した恋人? がいるとか……」
訊いてすぐ、ジャスパーとヴァラは同時に首を横に振る。
「おりませんね。今までにいた試しなんて一度もありませんよ? ジャスパー様は愛らしい令嬢が寄って来ようが無関心。石英樹海と飛行二輪の事で常に頭がいっぱいですからね」
ヴァラはきっぱり言ってすぐ「この話は止めにしよう」と真っ赤になった彼は話を折ろうとする。
しかしなぜだろう。アイリーンは彼に恋人がいない事にほっとしてしまう。
会ってもいないのに勝手に恋をした、そしていざ会って幻滅して落胆した。今の気持ちというと……決して嫌いではない。むしろ初対面より随分印象が良い。
アイリーンは自分の腹の中に秘めた感情を確認している傍らで、ジャスパーはたじたじとした調子で切り出した。
「分かった。ヴァラに心配はかけたくないから、なるべく早く寝る」
「分かってくれれば良いですよ。それにアイリーン様も規則正しくきちんとお食事を取り、夜はしっかりとお休みになってくださいね」
なぜに私まで。そうは思うが、彼女の視線はリーアムが向けるものにどこか似ているので、何となく言わんとしている事は分かった。
自分とリーアムたちと同じように、彼女はジャスパーと長く連れ添っているのだろう。……つまりは、侵食の最中を見ているに違いない。
流血こそしなくとも、皮膚を裂かれるような酷い痛みだ。それも少しばかり後を引き、痛みに卒倒しそうになる事もある。
そんな様を見ていれば心配に思うに違いない。
「ヴァラさん、ありがとうございます」
丁重に礼を言えば、彼女はいいえ。と優しく微笑んでくれた。