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10 樹海の外の初めての朝

 淡い光に促されてアイリーンはゆっくりと瞼を持ち上げた。

 知らない天井だ。神殿じゃない。

 それを理解して、改めて昨晩をはんすうする。

 ……彼の言った通り樹海は突破できたし、命を燃やし尽くす浸食も起きなかった。

 とはいえ、何も起きなかった訳でない。

 樹海の呪縛は確かにあった。

 風の精霊たちの様子が明らかに普段と違ったのだ。

 彼らは目の色を変えて纏わり付いてきた。放つ言葉は奇声のみ。一切の意思疎通が取れなくなった。

 それでも、しつこくなかった事が幸いで、石英樹海を抜けると精霊たちはスッと煙のように消え去った。

 だが、この猛攻で彼の飛行二輪はまたも壊れてしまった。

 彼曰く〝機械の心臓〟とも呼べるエンジンに異常を来したそうで──緊急着陸するなり、機体を乗り捨てる羽目になった。

 そうして近くの農場で馬を借りて、走る事数分……立派な屋敷の前に到着した。

『ああ、ここ? 別邸だよ。周辺は寂れちゃいるけど、一応俺の管轄する領地内。本家は市街地だが数年前からこっちに住んでる』

 ジャスパーはざっくばらんにそう説明をしただろう。

 馬を借りたので少し時間はかかったが、石英樹海からさして距離は感じなかった。

 それもその筈、彼の屋敷は樹海の麓だったのだ。

(……私、本当に樹海を出てしまったのね)

 アイリーンはゆったりと起き上がり、天蓋裏の一点をぼんやり見つめ続けた。

 実感はいまだに薄い。まじまじ考えると感慨深く思えてしまう。  

 きっと神殿は今頃大騒ぎだ。皆、恐ろしい形相で怒っているに違いない。

 だが、ここに来たのは誰でもなく自分の意思だ。

 それでもやはり心苦しさはあった。怒るリーアムや司祭の顔が自然と浮かび、アイリーンは寝たまま身を縮める。

 自分の行動と意思とは言え……頭ごなしに怒られるのは怖いと思う。

 アイリーンは自分が不器用とよく分かっていた。感情的な対応を取られると思考が止まり、言葉が詰まる。特に怒りにはめっぽう弱いと自負していた。

『あんたって繊細過ぎて思考が理解できない』

 何度サーシャにそう言われたか分からない。

 それでも彼女の場合は、怒ったにしても一度感情をぶつければ終わり。きっとその後は険悪な態度なんて取らないと容易く想像できた。

 だが、問題はリーアムだ。

 彼との付き合いは随分と長いが、四・五年前から彼は突然素っ気なくなった。

 幼い頃、リーアムと心の距離が近かった。

 自分が想像する〝兄〟のような立場でいつも寄り添ってくれたが、背が伸びるにつれて彼は他人行儀になった。

 それに性格も少し変わったように思う。

 元より真面目だが、神経質さに拍車が掛かっただろう。

 彼も彼でハキハキとしており、言いたい事ははっきりと言うが、サーシャと違ってややしつこい。なにせ顔を晒しているだけで言う程だ。

 とはいえ、いつだって眼差しに確かな温かみがある。

 小言は多くとも、大事に思ってくれていることはどとこなく理解できた。

 だが今回はもうダメだろう。

 この行動は突き放されて当然だろうと思った。

 自分で決断した癖に、心のどこかで寂しい気持ちが芽生えてしまう。

(何かを得る為には、別の何かを手放さなくてはならないのかしら……)

 いい加減に起きよう。アイリーンはベッドから出た。

 しかし、今まで自分が眠っていた場所と周囲を見て驚いてしまう。

 ──ベッドの外面は眩い程に豪奢だった。

 天蓋から伸びるベールは臙脂色の別珍に金糸で花の刺繍の施されたもの。その中は大人三人が横になって寝られそうな程に広々としていた。

 室内は広く、机やソファ、テーブルと揃いの綺麗な調度品で纏められている。

 昨晩は屋敷に辿り着き、部屋に通されるなり泥のように眠ったので室内をまじまじ見ていなかった。しかしまさかこんなに上品かつ豪奢だったとは。

(これで別邸……)

 アイリーンの知る貴族の生活は、与えられた数少ない書物の中の情報のみ。室内は想像以上だった。しかし、こうも豪奢というのに、不思議と目が落ち着いた。

(……ずっと真っ白な場所で過ごしていたからかしら?)

 神殿の内部は外壁も内装も……八割は白か透明だ。

 だからか。と、一人納得しつつアイリーンは窓辺に歩む。そして外を見たと同時、眼下に臨む景色に息を呑む。

 そこには荒涼とした樹海とは違う鮮やかな景色が広がっていた。

 緑の木々が眼下にびっしりと茂っており、遠くにはしやくどう色の街が見える。その街からは数本の煙が上り、不思議な光景が広がっていた。

 来た時は真夜中。黒い塊が広がっているように見えただけだったが……。

「わっ……すごい!」

 こんなに青々とした大きな木を見たのも初めてだ。アイリーンが手をついて出窓に乗り出した時だった。

「おん……起きたのか? しっかり寝れたか?」

 やや癖のある声が横から響き、アイリーンは目をみはる。視線を向けると、壁にかけられたベールを捲ってジャスパーが姿を現したのだ。

「え……」

 驚きのあまり目を丸くすれば、ジャスパーは噴き出すように笑う。

 何とも子どもじみた場面を見られてしまった。恥ずかしい。慌てて降りようとするが「焦って降りると危ないから、そのまま聞け」と制された。

 そうしてアイリーンの傍に寄るなり彼は、ゆるやかに唇を開く。

「ここは夫婦の部屋だ。没落した伯爵家の屋敷を買い取ったから、ちっとばかし古い。昔の貴族の部屋って主人の部屋と妻の部屋が隣り合ってこんな造りだ。俺は主人の部屋を使っている」

「え……夫婦の部屋?」

 どういう事だ。なぜそんな場所に。

 アイリーンは驚き、目をしばたたくと彼は少し照れくさそうに頬を掻く。

「……変な意味じゃない。樹海を出たって何も起きないと踏んでいたが、百パーセントじゃない。多少の心配はあったから傍に置きたいておきたかった。それに、いくらあんたの中身が外の景色にはしゃぐだとしてもだ。女神であって客人だ。雑な扱いは出来ないから一番良い部屋に通した」

 ──と、言っても、妻の部屋に通すのも変な待遇かも知れねぇが。と。彼は軽く笑って付け添える。

「そ……そうなのですね」

 やはり出窓に登ったままは恥ずかしい。言われた言葉の六割が頭に入ってこない。

 しかし、彼の言葉に嬉しいものが一つあった。

 普通の女の子──アイリーンにとっては、ずっと欲しかった憧れだ。

 たった一言で心が温かくなり、同時に甘い擽ったさと妙な高揚感を覚えた。

「ジャスパー様、あの。ありがとうございます」

 アイリーンは丁寧に礼をするが、彼は眉を寄せる。

「あのさぁ、アイリーン。〝様〟はやめてくれ」

「……え?」

「二年も文通して他人行儀だろ。文章の中では俺をそう呼ばなかっただろ?」

 ──なぁ、アイリーン? と、今一度呼ばれてアイリーンは目をしばたたく。

 今まで見た事もない程に柔らかな笑み方だったので面食らってしまった。

 精悍な顔立ちだが口が悪い。そしてどこか意地悪そう。そんな印象だが……こんなに優しい表情もするのかと。

 ふと過ったのは彼と同じ名の鉱石だ。

 石英の集合体──ジャスパーは様々な顔を持つ。

 赤褐色や緑のもの、白いもの、まだら模様……と幅が広い。それと同じで、彼は様々な表情を持っている。果たしてどれが本当の彼か。

 いやに胸が早鐘を打ち、アイリーンの頬は紅潮する。

「……はい、ジャスパー」

 敬称も付けず呼ぶのは照れくさくて仕方ない。だが彼が満足げな顔をしているので釣られて少し頬がゆるんでしまった。

「あ、そうだよ。あとさ、食ってみたいとか行ってみたい場所があれば何だって言ってくれよ? 折角樹海から出られたんだ。外の世界を知って欲しい」

「外の世界……?」

「勿論、呪いの調査はやる。でも、それ以外の時間も充実してねぇと。連れ出したからには幸せでいて欲しいからな。出来る限りの望みは叶えてやりたいからな」

「ありがとうございます……」

 こんなに良い待遇を受けて罰が当たらないだろうか。妙な後ろめたさを覚えつつ、アイリーンは彼に頭を垂れて礼を言う。

 それから暫く雑談した後「仕事に戻る」と彼はベールの奥に消えて行った。

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