光もささぬ密閉された地下というのに、不思議と空間は薄明るかった。室内はまるで緑豊かな森の中のよう。二百年以上誰も踏み入って居ない筈だが床や壁には青々とした苔が生していた。
なぜ室内がこのようになっているのか一つ見当がつく。この室内には明らかに命の気配があるからだ。
恐らく地面や壁に……今は目視できないが多くの視線が静かにこちらを見ている事が分かる。
それをジャスパーも感じたのか、彼は注意深く周囲をぐるりと見渡した。
「すげぇな……森の中みたいだ。土の精霊か?」
「多分そうかと。寡黙で穏やかな性質の彼らは基本的に人前に姿を現しません。私もはっきりと見た事はないです。でも、恐らくこの室内だけで夥しい数がいます」
苔は間違いなく彼らの仕業だ。それどころかよく見れば苔どころか茸やシダ植物まで生い茂っている。
精霊には部屋も鍵が通用しない。どこにだって勝手に入る事ができる。
それでも生きた人の気配のする建物内を縄張りにする事はない。だからこそこの祈りの間か……ここには遺体しかないのだから。
敵意を感じない事が幸いだった。
ただ視線を感じるだけで語りかける様子もない。アイリーンは安心して室内を見渡すが、薔薇色に光る塊を二つ見つけて青ざめた。
室内が薄明るい原因はこれだ。
嫌でもそれが女神たちの成れの果てと理解してアイリーンは卒倒しそうになるが、すぐにジャスパーに背を抱かれる。
その空間には蹲る姿をした乙女と祈る姿をした乙女が向き合って並んでいた。
まさに石膏の彫刻品のようだった。
顔を見る限り、十七歳の自分とは変わらない年端と分かる。蹲る娘は長い髪。祈る娘は肩に付くほどの短い髪型の乙女の姿をしている。
その前には剣と鏡が置かれており、紛れもなく前代、前々代の女神と分かる。
畏怖に自然と涙がこぼれ落ちた。身体が震えるが、それを悟ったのかジャスパーは痛い程に抱き締める腕の力を強めた。
「女神は朽ちないと象徴するみたいだな……あまりに悲しい」
ジャスパーの声は僅かに震えていた。
彼はゴーグルを外すと、アイリーンを丁寧な所作で座らせて、蹲る乙女の石像の前で祈る姿勢を取る。そして、立ち上がると今度はもう一人の女神の前でも祈る姿勢を取った。そうして
「この方があんたの先代みたいだ」
アイリーンは立ち上がり、彼の示す石像に怖々と近付いた。
──三代目は祈る姿勢を取った髪の短い乙女だった。
彼女は憂いの帯びた面をしているが、その目元は優しげな笑みを浮かべて、あるものを見つめていた。
視線の先は彼女の膝の近く。置かれていたのは色褪せた封筒だ。宛名には〝四番目の汝へ〟と……見覚えのある書体で綴ってある。
震えた手でアイリーンが手紙を取り封を切ると、相変わらずに堅苦しい文頭の挨拶から始まった。
……内容はジャスパーの発言の答え合わせのよう。リグ・ティーナ人の青年との関わりを記したものだった。
その男とのなれ初めは、ジャスパーと同じで彼が鳩を使って手紙を送って来たそうだ。だが当時の石英樹海の人間は女神とて文字の概念も持たなかった。
初めこそは解読不能で困ったらしい。しかし文字は彼女の探究心は刺激した。何を書かれているのか気になり、彼女は下っ端の若い神官に頼んで文字の読み書きを教わったらしい。
彼、フリント・ヒューズとは約三年文通したそうで、互いに似た者同士だからこそすぐに打ち解けたそうだ。
クリスタルに蝕まれた女神と錆に蝕まれた忌まれた王子。こんな間近に似た呪いは二つもある。二つの国の歴史と石英樹海の発現など……。
厄災は人々に語り継がれようが時が経てばあやふやな輪郭になる。それでも、石英樹海の発現、女神ともう一人の呪われの誕生は恐らく密接な繋がりがあるに違いないと二人は真実を探ったそうだ。
その最中、次第に三代目は彼に憧れを抱き惹かれるようになったそうだ。
直接話をしたい一度で良いから会いたい、ともに呪いを解きたい。できる事ならば寄り添い生きたい。と文字にしたためてからというものの音信不通になったそうだ。
三代目は異常な程に直感力が優れていた。
ましてやこの樹海にはお喋りで気まぐれな精霊や妖精たちがそこらじゅうにいる。
それ故に、彼が樹海の洗礼に遭って死んだ事はすぐに分かったらしい。
あんな我が儘を書かなければ良かったと彼女は後悔した。
しかし、あの執念深い探究心を考えれば、彼はその想いを次代の錆の王子に繋ぎそうだと思ったらしい。
────そしてお前の代でもきっと〝似た者同士の変わり者〟が現れるだろう。もし、お前を石英樹海の外へ連れ出さんとする者が現れれば、その手を取れ。運命をねじ曲げろ。
その者はきっと彼の正しき名と私の名を知っている筈だ。それが証明だ。
アイリーンは手紙を読み終えると、怖々とジャスパーを見つめた。
「……男の正しき名はフリント・ヒューズ・リグ・ティーナ。俺の前代に当たる〝錆の王子〟だ。俺からすれば遠い血縁者だ。死亡年齢二十四歳。石英樹海の上空で散っている。そして、この子の名前は蛍石の意味を持つ名……フローレンスと言ったらしい。とても聡明な女神だったそうだ」
穏やかに言われてアイリーンは涙ぐんだ。言葉にする事もできず頷くと、先代に向かって祈る姿勢を取る。
フローレンス。その名だって初めて知った。
どういった訳か彼女は一度も名を明かさなかった。しかし、まさかこの日この為だったと思いもしない。
「この子は数百年後に生まれる不憫な女神を存在させたくないと先代の錆の王子に宛てた手紙の中で嘆いていた。俺はな……自分の自由の為は勿論、彼女の願いの為にも何としてでもあんたと呪いを解く道を探したい」
──だから、俺と一緒に石英樹海を出よう。と、付け添えるように言われた言葉にアイリーンの胸は強く脈打った。
寿命の制限も石化もなくなる未来など夢物語のようにさえ思えてくるが、期待してみたくはなる。
断ち切りたい。生きていたい。
一人では不可能でも二人ならば……。
『今度こそは』
ふと頭の中に少女の声が響いた気がした。
「アイリーン、この手を取ってくれるか?」
真っ向からジャスパーに射貫かれて、迷うことなくアイリーンは彼の手を取った。
そうして、ものの数分後。地上に上がり、納屋近くの茂みの中から彼は飛行二輪を引っ張り出した矢先、妙に塔付近が騒がしくなった。
「はは、バレたな」
暢気な調子で彼は言う。しかし妙に気がかりな事があり、アイリーンはすぐに彼の袖を掴んだ。
「貴方の側仕えの……あの、大柄の方は……置いていくのですか」
その質問にジャスパーは目を丸くして「はは」と軽い笑いを溢す。
「あーヒューゴーな。大丈夫。あいつは初めから陸路で帰る気満々だ。できたら、あんたの従者も連れてな」
「え……でも、精霊が……」
石英樹海は侵入者も拒むが、出て行く者も拒む筈。ただで済む訳がない。
「なぁに。神殿関係者なら誰でも精霊払いできるだろ? 神殿の奴らは皆イル・ネヴィス出身の偉い坊さんどもだ。つまり、対精霊に手立てがないなんてありえない」
あっさりとジャスパーが告げてアイリーンは目をしばたたく。
……言われてみれば確かにそうだ。
従者を覗く司祭や神官は皆イル・ネヴィスの者だ。彼らは事実上樹海に出入りできる。
「そもそもだ。誰もが恐れ敬う女神が絡む事だ。絶対に追ってくる」
本当に何からなにまで先を見越してやって来たのだろう。その事実が見えるだけで、アイリーンは呆気に取られてしまう。
「って、悠長に話してる暇ねぇな。行くぞ! 後ろに乗って俺にしがみついてろ!」
少し離れた所から喧噪が近付き始めた事にアイリーンも気が付いた。
彼に従って、横乗りになること数拍後。獰猛な獣が唸るような音が機体から規則正しく響き出す。
「とっとと行くからな!」
機体が発する音に負けぬよう彼は大声で言う。アイリーンは頷きジャスパーの腰にぎゅっとしがみついた。
それから間もなくだった。ワラワラと司祭やリーアムが駆け込んできた。
自分を呼ぶ声も聞こえるが、殆どが機体の発する音に掻き消されて
この轟音以外、世界の音全て消されたかのような感覚がした。
途端にふわりと機体が浮かび急上昇する。
そうしてやがて、神殿はゆるやかに遠ざかっていった。