──数時間後。夕べの儀式が終わった後も、昼に見たものが頭から離れなかった。
(あれは、いったい何。私の侵食とよく似ているけれど……)
バルコニーに出て夜風に当たるアイリーンは、石の柵に頬杖をついて吐息を溢す。
頭上は相変わらず雲に覆われているが、雨は降りそうにない。月が出ているのだろう。ほんのり明るい空を見上げてアイリーンは薔薇色の瞳を細めた。
同じものと断定できぬが、症例があまりに似ていた。
腕だけであの侵食密度だ。皮膚表面だけでなく骨まで到達しているのではないだろうか。しかし、なぜに彼は生きていられるのか……どうして平気か。
訊いてみたいが直接話すなど叶わない。
そう思ったと同時だった。
「うぉ、あっぶね……」
バルコニーの真下からやや癖のある掠れた男の声が響いたのである。この声は明らかに聞き覚えがあった。
まさか……。
声がした下へと視線を向けてすぐ。映った光景にアイリーンは大きく目を
バルコニーの少し下、飾り窓を掴んで壁をよじ登る男の姿があるのだ。暗がりの中とはいえ、短髪に毛皮付きのジャケットを羽織ったシルエットからよく分かる。間違いないジャスパー・ヒューズだ。
「な、なに……してるの!」
驚きのあまり素っ頓興な声を出してしまった。リーアムが駆けつけたら厄介だ。アイリーンは慌てて自分の口を押さえて耳をそばだてる。
幸いにも足音一つ聞こえず、誰にも気付かれていないようだ。胸を撫で下ろしたアイリーンは唇を塞いだ手を離した。
そうこうしている間に彼は、バルコニーの柵を掴んでいた。身軽にひょいと柵に飛び乗ると、腕の疲れを払うように肩を回す。
「やーさすがに高けぇし。怖かった」
この人は何を言っているのだろう。否、何をしているのだろう。アイリーンは固まったまま、何度も目をしばたたく。
女神の部屋は神殿の中でも最も高い中央塔。見下ろす景色は、周囲を一望できる程。ここから落ちればひとたまりもない。
それをロープなしで上るなど、命知らずにも程がある。
アイリーンは戸惑いつつも「何用ですか」と静かに彼に問いかけた。
「何って……っていうかあんた、その馬鹿丁寧な言葉わざとか。手紙と同じような喋り方できるのな」
「……え?」
全く質問の答えになっていない。アイリーンは眉をひそめた。
「いやだって、さっき……〝なにしてるの〟って」
……確かに言ったが、まさかそこを突っ込まれるなんて思わずアイリーンは面食らってしまった。
確かに〝女神とはこうあるべき〟と、神官達に厳しく喋り方を矯正されたが……。
「それは関係ありませんよね? 私の質問に答えてください」
なるべく小さな声で言うと、彼はやれやれと首を横に振って軽く笑む。
「昼にさ。俺の手を見ただろ? まさか女神様が覗き見していると思わなかったが」
彼がいきなり、気になっていた事を突いてくるのでアイリーンは目を
「話す機会がなかったからな。さっさと本題を言うが……これは、あんたの呪いと同じだよ」
そう言いつつ、彼は革製のグローブを外して、アイリーンの前に錆に浸食された手をアイリーンの前にそっと差し出した。
「あんたみたいに綺麗な侵食じゃねぇけど、全く同じ
「……呪い?」
奇病の間違いだ。
アイリーンは眉を寄せる傍らで、彼はアイリーンの部屋にズカズカと踏み入った。
「俺も同じ運命だ。手紙で話したって信じて貰えないだろうと思ったから言わなかった。百聞は一見にしかず。会いたいってようやく言ってくれたからな」
「だからと言って……」
危険を冒してまで来る事無いだろう。アイリーンがその旨を述べると彼は首を振る。
「そこは構わん。突破する自信はあったからな。さておき俺の話を少し聞いてくれ」
ハラハラとした顔のまま頷くと、彼は軽く笑んで話を進めた。
「
──とりあえずあと二十年近くは死にそうもねぇから、俺はちゃんと公爵しているけどな。そう付け添えて彼はへらりと笑む。
身分は既に分かっていたが、王子とはこんなに粗暴で口が悪いものか。アイリーンはこめかみを揉む。
しかし寿命は四十歳と。晶の女神の倍じゃないか。
──奇病ではない。呪い。錆の王子。
情報が一度に頭に押し寄せるものの、さして混乱はしなかった。
そもそもだ。一方通行の意思疎通とはいえ、鳩を使役できている時点で彼は普通で無い。その上、この天井画を見ると嫌でも無関係ではない気がする。
それでもやはり半信半疑だ。
天井画を一瞥してアイリーンは彼を見る。
「それって……」
本当ですか。と言い切る前、彼が次に取った行動に驚き、悲鳴を漏らしそうになった。なにせ、いきなり彼がベッドの天蓋のベールを外し始めたからだ。
「な……なにして」
「あんた連れて降りる為の脱出用。降りる時はさすがに怖いからな」
彼は今けろっととんでもない事を言っただろう。
「どうして私まで……」
行くなんて言っていない。こんなのバレれば謹慎どころの騒ぎでない。慌ててジャスパーの手を止めようとすれと、彼はやんわりとアイリーンの手を剥がす。
「なぁ、あんたさ。こんな場所で石になって早死にするで良いのか? 外に出たいとは思わないのか?」
真摯な視線を向けて彼は言う。その面持ちは先程の戯けた軽い調子と違い真面目なものに変わっていた。
精悍な面だからこそ余計に迫力がある。
昼間も見たがどこか神経質そうな雰囲気さえ感じるこの顔は、手紙の中の人物と同一だと痛い程に分からせる。
しかし今は、恋のドキドキとはまた違う。
妙な緊張感がアイリーンの背を震わせた。
「いいか、こんな場所にいるから侵食が早いんだ。間違いなく石英樹海が寿命を削ってる。あんただってきっと二十年以上は生きられる筈なんだ」
アイリーンはジャスパーを見つめたままその言葉を
「ちょ……ちょっと何して……」
さすがに喫驚してしまった。慌てて止めようと腕を掴むと彼はピタリと手を止めて、再びアイリーンに向き合った。
「あんたが俺に会いたいって手紙をくれた。先代の呪われ王子も女神に手紙を送った記録が残っているが、返事があったのはあんたとあんたの先代だけだ。あんたの先代も〝会いたい〟と手紙を送ってくれたが、その当時の工学は未発達。あの乱気流を攻略できなかったらしくてな」
先代の呪われ王子は上空で散り女神に会えず死んだ。と、彼は呆れつつ笑む。
でたらめを言っているように思えずアイリーンは言葉を失った。
しかし、先代と彼の先代がやりとりしていただの、そんな記録は微塵も残っていない。いや。決してない訳では……と今更のようにアイリーンは思った。
会いたかった人だっていた。と……。確かに書いていたのだ。
ましてや、最後に寄越した手紙の中で先代は自分に何かを訴えようとしていた。自分に会いたいと……。
「どうした?」
何も応えずいた事を不審に思ったのかジャスパーは
「先代が寄越した手紙の事を思い出しただけです。彼女は手紙の中で私に会いたいと言いました。それって〝死んで会いに来い〟以外に何があるものでしょうか」
「謎かけか? 墓所に来いとかそういう意味じゃねぇの?」
首を捻って彼は言うが、アイリーンは〝それだ〟と即座に確信した。
神殿の内部には、女神しか入る事ができぬ祈りの間が存在する。その奥には厄災とされた初代以外の……歴代の女神二人が眠っているらしい。
「間違いなくそれです……」
真っ青になって震えつつアイリーンが言うと、「どうした」と言わんばかりの面で彼はアイリーンを見つめた。