そんな事を考えていれば、早速気配を感じ取った。
アイリーンは僅かにフードを捲る。窓辺の柵の上、翡翠色の翼を持つ長い尾羽の小鳥が二羽現れた。風の精霊たちだ。
『あーあー終わっちゃったの? 女神さまが従者に叱られてるの面白いもん。せっかく冷やかしに来たのに』
『というか、あの従者っていつも怒り散らかしてない? カッカカッカしてさぁ、そのうち禿げそうじゃない?』
随分口が悪いが、大抵がみんなこうだ。しかし、声が少女とも少年とも判別できない稚いものなので憎たらしさは不思議とない。
……しかし禿げると。精霊自体が見えていようが、リーアムには言葉自体は聞こえていない。だからこそ性質が悪い。
アイリーンは必死に噴き出しそうになるのを堪えるが、精霊たちはそれを面白がっているのだろう。
二羽は無邪気にケラケラと笑って気配を消した。
彼らは気まぐれだ。どこかに行ったのだろう。しかし、危なかった、笑ってしまいそうだった……。
アイリーンは引き結んだ唇を解き安堵する。
「アイリーン様?」
手紙を握ったまま硬直したままのアイリーンを不審に思ったのか、リーアムは心配そうに訊く。しかし、精霊の放った言葉など言えやしない。笑いがぶり返しそうなのでアイリーンは首を横に振った。
「では、要件はこれだけなので。アイリーン様も
次代に。この言葉を言う時のリーアムの声は少し暗くなる。
案じているのだろうと分かる。
なにせ物心付いた時から付き合いなのだから。
彼はアイリーンが物心ついた時から傍にいる。女神の再来を予期してすぐ、彼は神託によってアイリーンに仕える事が選ばれた。
五歳の頃、親から引き離されてこの神殿に連れて来られたそうだ。
彼も彼で似た者同士。
従者も壮絶な立場だろうとアイリーンも思う。
ひとりぼっちのアイリーンには家族がいかなるものか分からぬが、兄がいればこんなだろうとよく思う。
この運命が恐ろしくて二・三年前までは侵食が起きる都度泣いていた。
そんな時、リーアムはいつも背を摩って励ましてくれたのだ。
『大丈夫ですよ。ずっと僕がお仕えしますから』
『アイリーン様が寂しがらないように、僕はいつも傍にいますから』
歴代の女神は必ず皆、二十歳に届かず最期を迎えた。
その亡骸は女神しか入る事ができぬ祈りの間の奥に従者が運ぶらしいが、アイリーンは恐ろしくてその場所に踏み入った事がない。
自分がどのような最期を迎えるか目にしたくなかったからだ。
だが、もう運命は受け入れている。もう十七歳。聞き分けのない子どもではない。どんなに駄々を捏ねても運命は変わらないと分かりきっているのだ。
「アイリーン様どうされました? お体の調子が優れませんか?」
リーアムに訊かれて、アイリーンは慌てて首を振る。
「すみません、ぼーっとしてしまっただけです。分かりましたよリーアム、手数をかけてごめんなさいね」
そう答えて間もなく、彼は静かに退出した。
さて、今日は何が書かれているか。扉が閉まる音がしてから数拍後、アイリーンは再びフードを取り払った。
アイリーンは丁寧に封を切り、便箋を取り出した。
大抵便箋に一枚、彼女の手紙はさして長くない。
…………仄かに僅かに青い香りを含む風が涼やかな石の樹海に吹き抜ける。月は欠け、じきに新月に差し掛かる四月の中頃。
相変わらずに前置きからしてやはり今日も詩的だった。
前代、三代目が聡明と言われたのは硬い文章を見れば一目瞭然だった。
最近はそうでもないと思うが……泣き虫で怖がり。表情がかなり顔に出やすいと自覚するアイリーンからすれば、彼女は真面目過ぎる印象が強く対照的のように思う。
それでもその後は、元気に過ごしているか従者とはどうだ。など、どこか気遣うような言葉も多く含まれている。
アイリーンは開けっぱなしの窓辺へ歩み寄り、出窓に腰掛けて窓の外を眺めた。
神殿から望む石英樹海は荒涼とした印象が強い。
一番の原因は緑が極端に少ないからだろう。
自生する植物といえば、低樹木のハリエニシダやら痩せた土地にも生えるヤグルマギクやヒースなど。他にも名も知れぬ花もあるが、これらが咲くのは初夏から夏にかけてだけ。春真っ只中の今は僅かな芽吹きが始まる季節。
しかし、秋冬になれば荒涼を通り越して酷寒と言った方が相応しい。
それでも、神殿の目の前に広大な湖を臨んでいる事から決して退屈な景色ではなかった。人の侵入を拒まないだけであって、鳥はよく来るのだ。冬になれば白鳥が寒々とした湖に飛来し、美しい羽ばたきを見せてくれる。
アイリーンは樹海を一望した後、再び便箋に視線を向けた。
現在は四月。三代目が自分に宛てた手紙は二百年前の今日書かれている。
その証拠に、封筒に今日と同じ四月十二日の日付が記されている。
詩的な表現が多く理解に苦しむ事が多々あるが、それでも自分を気に掛けてくれている事が分かり心の奥が仄かに温かくなる。
…………後悔なく今日を生きろ。明日の生き方は風に聞き、土に聞き、水に聞け。決して砕けるな。
「汝、岩の如き硬く砕けぬ心を持て」
彼女が文中でよく使う言葉をアイリーンは口に出した。
この言葉をアイリーンは魔法のように思った。心の奥底が自然と温かくなり、不思議と勇気が湧いてくる。
真面目でどこか気難しいが、彼女はきっと温かな人物だったのだろうと思えた。
まるで文通しているような気分だが、彼女は故人に違いない。
そう思うと切なく思うが、自分も彼女のように堂々としようと思えてくる。同じ女神として、亡き彼女に素直に憧れを抱く部分はあった。
(何か私も彼女に話しかける事ができればいいのに。思えば、彼女の名前だって知らないわね)
再び手紙を読み進めるが、アイリーンはふとした違和を覚えた。
これまでと打って変わり彼女の言葉がどこか弱々しいからだ。
結晶化が数日で著しく進み、迫り来る死を実感している事が細やかに綴られている。
────受け入れているが、死ぬのは怖い。会いたかった人だっていた。
記された言葉に、やはり自分と年端も変わらぬ娘だと知り、アイリーンの心は締め付けられた。
そして読み進めて暫く、最後にこう締めくくっていた。
────やはり人に託した手紙では話しづらい。お前とは二人で話がしたい。否、せねばならぬ。身体が動くうちに我が元へ来い。と……。
どういう事だ。アイリーンは眉をひそめるものの、途端に背筋がゾクリとした。
不可能だ。なにせ相手は二百年も昔に死んでいる。
まさか、自死しろという意味か。
どういった意図か。読み間違えではないのか……と、アイリーンは再び視線を落とすが、読み間違えではない。
確かにそこには〝二人で話がしたい〟との文字がある。
恐れをなしたアイリーンは慌てて手紙を折り畳んだ。