前の二人の女神は二十に届かず絶命したと言われている。アイリーンは冬の終わりに十七歳を迎えたばかり。もうこの歳になってしまえば、あとどれ程持つか分からない。それでも終わりは遠くない未来と理解している。
(できない事でも一度でいいから……)
──ジャスパー。一度で良いから貴方に会ってみたいの。直接あなたとお喋りしてみたい。あなたの手に触れてみたい。あなたに撫でられたら、きっと温かい気持ちに満たされそう。
そう綴り、アイリーンはぱっと我に返る。
いやいやいや……さすがにこれは恥ずかしい。撫でられたいなんて、幼い子どもでもあるまいし。もう十七歳、いい大人だ。アイリーンは自分で書いた文章に真っ赤になって狼狽える。
こんなものを見れば「何を言っているんだ」ときっと呆れられるだろう。
『で、書き終わったかしら? さぁさ、私の脚の筒に入れてちょうだい』
言葉は通じるとは言え、さすがに鳩は文字まで理解できない。グウィンに何食わぬ声色で言うと、アイリーンの書いた手紙の端を嘴で持ち上げる。
「え、ちょ。ちょっと待って……」
『書き直す?』
「恥ずかしい事を書いちゃった。だからその……」
『大丈夫よぉ。うちの主人は変わり者だって言ったでしょう?』
そうは言われても……。
アイリーンは、眉を寄せるが足音が近付いてくる事を悟って慌てふためいた。
『ほら、誰か来るわよ?』
言われなくとも分かっている。焦ったアイリーンは慌てて紙を丸めると、グウィンの脚に括り付けられた筒に手紙を乱雑に突っ込んだ。「ちょっとさすがに雑よ」なんて言われるがそんな事は構っていられない。
そうして間もなくだった。コツコツと二度叩扉が響き、アイリーンは大袈裟な程に背をビクリと震わせた。
「アイリーン様」
外から響く青年の声にアイリーンは慌てて返事した。
「ま、待って! まだ開けないで!」
「……分かりました」
着替えているとでも思ってくれているのだろう。それなら良かった。そう思いつつ、アイリーンは筒の蓋を閉める。
……じゃあお願い。と小声で伝えるとグウィンはすぐに飛び立った。
いや良くない。
先程書き記したあの手紙は何だか恥ずかしい。会いたいならまだしも、触れたいは異性に軽々しく言って良い言葉ではないだろう。
二十歳に届かず死ぬ予定なので、異性の事は最低限の知識しかない。
未知な自覚は大いにあった。それでも心の奥が仄かに温かくなり憧れを抱く〝恋〟という概念自体は何となく理解しているが……。
(あの書き方だと、好きって分かっちゃうかしら……)
恥ずかしい。顔を真っ赤にして窓の外を見るがグウィンの姿は米粒のように小さい。完全に後の祭りだった。
「アイリーン様、まだですか」
外から響く呆れた声にアイリーンは彼の存在を思い出す。
「あ、はい……お待たせしてすみません」
答えて間もなく、部屋に金髪の青年が入ってきた。
縦に長細い体躯の小綺麗な男だ。それでも腰に携えた剣は伊達でなく、細い体躯とはいえ腕周りはやや太く胸板は厚い。
異性で五つも歳が離れていれば当然か。そう思いつつ、アイリーンが彼を見つめていれば、冬の晴天によく似た透き通った水色の瞳と視線が合わさった。
「……お顔がお見えになっています」
怪訝に言われたので、アイリーンはすぐにフードを被った。
「何度言えば分かるのです。貴女は現人神です。尊きお方なのですから、従者の僕であろうと易々と顔を晒してはなりません」
「すみませんリーアム」
フードの下で面倒臭そうに目を細めた矢先「ふて腐れないでください」と呆れた口調で言われてしまう。
本当にリーアムは小言が多い。ああ、面倒だ……。そう思いつつアイリーンは吐息を溢すと、彼は更に大きなため息を溢した。
「どうして毎度朝の礼拝から帰ると貴女は窓を開けるのです……」
「それは……」
秘密の文通相手がいるだの口が裂けても言えやしない「換気に……」と苦し紛れに答えるや
「精霊か妖精。或いは鳥にでも餌付けをしているのでしょう? 調理場の者から粟か豆が余っていれば欲しいだの強請ったとは聞いていますし」
リーアムの答えにさすがにアイリーンはギクリとした。
「あ、えっと……それはそうで、その」
「従者にバレぬとでも……?」
彼はやれやれといった調子で続けた。
「それは禁忌ではないので僕が咎める筋合いはありません。
──まぁその行動は幼稚だと思いますが。なんて少し意地悪く付け添えると、リーアムはアイリーンにカサカサとした質感のものを握らせた。
「本題です。今日は前代からの伝達がありましたので」
だから部屋にわざわざ来たのだ。アイリーンはリーアムに今一度一言詫びて、狭い視界の先に映る色褪せた封筒を見た。
アイリーンに手紙を寄越す相手はジャスパー以外にももう一人いた。
こちらは内部……二百年前、前代の女神から届くのである。
届くといっても朝夕の儀式を行う聖堂の中の箱にしまわれているものを持ってくるだけでだ。
これが渡されるようになったのは、ジャスパーとの文通が始まったのとほぼ同時期。二年ほど前に遡る。
しかし、前代は一方通行。自分が何を思おうが彼女に伝える術はない。それも内容はあまりに詩的で抽象的。文体も硬いので内容の理解に悩む事は屡々ある。
前代……三代目晶の女神は、とても聡明な娘だったそうだ。
本来、この石英樹海に生まれた者たちは文字という概念を持たなかったそうだ。
しかし、彼女は代々この石英樹海の神殿を守るイル・ネヴィスの司祭に頼み文字を学び、後世の自分に思いを伝える手段が欲しいと縋った事で、それ以降は石英樹海にも文字という概念が定着したそうだ。
そもそも石英樹海を築いた厄災……初代女神を封じたのが、イル・ネヴィスの僧侶たちだった。
今となっては嘘みたいな話だが、昔の聖職者たちは人知を超えた力を神々から授かっていたと言われている。
しかし、厄災以降その力は失われた。なぜかといえば、厄災となった女神を討滅する為に全ての力を使い果たしてしまったらしい。
つまり……二度目はない。
厄災が起きても、もう手に負えないのだ。だからこそ、女神が再来すれば神殿の中に閉じ込める事が習わしとなっていた。
閉じ込められた生活なので外の事は
一つは神殿と関わりのあるイル・ネヴィス。
これは北から北東に位置する国で大地を司る神々や精霊に対する信仰の厚い古典的な国だそうだ。
そしてもう一つは、南東から南にかけて広がるリグ・ティーナ。
こちらは随分と文明が発展した国で、アイリーンが密通するジャスパーの住む国だ。
神殿はイル・ネヴィスと密接な関わりがある。しかし、どういった訳か石英樹海はどちらの国にも属していない。
なにせ、石英樹海は外の人間の侵入を激しく拒むからだ。
磁場は狂い人を惑わすだけでなく、上空の気流も荒く空からの侵入も拒む──その真相は、精霊や妖精といった自然霊がそこらじゅうに居て、外の人間を拒絶する。
その逆も然り。石英樹海で生まれた者の殆どは外に出る事が叶わない。
自然霊によって元いた場所に連れ戻されるならまだ良い。
惑わされた挙げ句に遭難して死体で見つかるのが通例だ。また、肉体を失い魂だけになっても樹海を彷徨い続ける亡霊化する事もあるらしい。
出入りが自由にできる例外は、厳しい修行を積んだ聖職者のみ。彼らは厳しい修行によって大地の神々から祝福を受けているそうで、自然霊の誘惑に屈する事はないと教わった。
人ならざるものは厄介で難儀だ。
しかし、彼らの恵みと叡智あってこそ、こんな辺鄙な地で人が何百年も生活できると言って過言でない。
時には脅威となり得るが、時には力を貸してくれる。自然霊は名の通り自然そのもの──大きく分けて「精霊」と「妖精」名称に違いは生じるが、姿と成り立ちによって呼び名が異なる。
「精霊」は動物的な姿の者が多く成り立ちは霧が発生する如く自然的なもの。
片や「妖精」は〝小さな人〟といった見てくれだ。石英樹海にいる妖精の多くは手のひら大。翅の生えた子どもたち──フェアリーと呼ばれる種の妖精が多い。彼女らは、幼くして死した子どもたちや、死産してこの世に生を受ける事ができなかった赤ん坊の魂の成れの果てと言われている。
子ども故の名残か彼らは好奇心旺盛で自由奔放。そして時に意地悪だ。
それでも、稀に精霊たちのように恵みを与えて人助けをする事もある。アイリーンもこれまで何度か妖精に助けられた事があった。
双方ともに普通の人間には見えない存在だ。だが、石英樹海に住まう人間は古くより自然霊たちとの関わりが深いので、大抵の人間が目視できた。
ましてや、彼らは石英樹海の人間が好きなのか……こうして窓を開けていれば、たまに入ってくる事がある。
そんな事を考えていれば、早速気配を感じ取った。