大正時代末期の沖縄。
颯玄は那覇で生を受けた。
元気溢れる性格に、両親はそれを何かに向けてもらいたいと祖父に相談した。
「ならば、わしが預かろう。お前は武術の道に入らなかったから、孫の颯玄を育てよう。だがもし、この道に向かないと判断した時は、普通に育ててくれ」
祖父の答えは実に簡単だった。
久米家は琉球王朝時代からの武門の家柄だったが、時代が変わり、なかなか跡を継ぐ者がいなかった。颯玄の父親の場合も継ぐことはなかったのだ。
颯玄の祖父はそのことをひそかに嘆いていたが、思わぬ申し出に颯玄に賭けてみようと思ったのだ。まだ、颯玄が3歳の頃だ。
後になって颯玄は知ったのだが、祖父はいわゆる隠れ武士と呼ばれる存在で、表には出ないが当時の高名な空手家には名前が通っていた。
その名を慕って教えを願う若者も多くいたが、なかなか二つ返事で引き受けることは無かった。祖父には武術、空手に対するしっかりした思いがあり、誰にでも教えることを良しとしなかったのだ。
そういうところに入門できた颯玄は幸運と言えるが、その前提には久米という家系がある。
だが、入門したからには祖父と孫という関係はあるものの、空手の稽古では師と弟子だ。そこは武のつながりのみという関係であり、孫ということは何の意味もない。
もっとも、まだ幼い颯玄に、本当の空手を教えることは無い。空手に必要な基礎的な鍛錬が中心だ。
と言っても、まだ子供の身体なので、本格的な鍛錬というわけにはいかない。遊びの要素を取り入れ、颯玄が飽きないように工夫されていた。これまでにやったことが無いようなことだったため、特殊な遊びの感覚で言われたままのことをやった。
年齢が上がってくると、それに合わせて少しずつやる内容も変化してきた。中にはやらされている意味が分からず、怖い思いをしただけの稽古もある。
例えば、空井戸の縁を走らされ、そのまま井戸の中に飛び降りる、といったことだ。こういう稽古は恐怖以外、何もなかった。水が無いため、落ちた時の衝撃はもろに全身で感じる。大人にとっては浅いけれど、まだ幼い颯玄にとってはとても深く、このまま死ぬのではと思うことも多々あった。幼かったからこそ続けられたのかもしれないが、言葉にはできないが、何かを感じていたのかもしれない。