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第102話 ふたたびの夏


 一瞬、息が止まった。ベッドから飛び起きたその部屋は、見慣れた家具、食器棚からはポトス観葉植物つるを伸ばしていた。それはまだ青々と瑞々しく、世話が行き届いている。


(ここは、私の部屋)


 姿見に映る横顔は、青い小花がプリントされたワンピースに、亜麻色あまいろをした長い髪の須賀小鳥だった。頬に触れてみると確かに温かい、正真正銘の28歳の須賀小鳥だ。


(涼しい)


 エアコンから吹き出す冷風、それは現在いまが暑い時期である事を指し示していた。ローテーブルの上には、ペールブルーの2023年製のaPhoneが置かれていた。


(今は、今は!?)


 小鳥の手は、恐る恐る携帯電話を手に取り、暗証番号を打ち込んだ。1024、拓真の誕生日でそれは解除された。


(2024年6月22日・・!)


 携帯電話のホーム画面を目にした小鳥は、思わずそれを胸に抱き締めた。そしてもう1度、画面を見つめた。


(・・・あれ?)


 小鳥はそこで違和感を覚えた。ホーム画面の壁紙が変わっていたのだ。それはドラキュラ伯爵に扮した拓真の頬に、猫耳を付けた小鳥が口付けをしている。


(ドラキュラと猫・・・だ)


 2022年にタイムリープした際、の画像は携帯電話から全て消えていた。いぶかしげな小鳥は画像フォルダを開き、カメラロールを下へ、下へとスクロールした。すると、と撮影した画像が次々と表示された。


(これは・・・温泉に泊まった時の写真だ)


 海蘊もずくときゅうりの酢の物、金時草きんじそうのお浸し、貝柱の胡麻和え。ガラスの器には鯛や平目、ぶりの刺身。天ぷらは海老にイカ、舞茸に筍そして帆立貝、目にも鮮やかな御膳の画像。


「拓真」


 向かい合わせに、蜻蛉とんぼ柄の浴衣を着た拓真がビールのグラスを手に、小鳥へと微笑み掛けている。


(でも!これって、どういう事!?)


 その代わりに、の画像が1枚も無い。


(・・・・もしかして!)


 小鳥はスツールを袋戸棚の前に置き、埃っぽい段ボールを避けた。その奥には、色褪せたパティスリーの包みがあった。中には白い手帳との遺影が封じられている筈だ。埃臭い包みに顔をしかめながら中身を改めた小鳥は驚愕した。


「ない!どうして!」


 その包みの中からの遺影は忽然こつぜんと姿を消していた。しかも、白い手帳につづった筈の、拓真たちとの思い出が、跡形もなく消えていた。


「書いたよね!?私、書いたよね!?」


 目頭が熱くなり、ハタハタと涙が溢れた。


(ゆ、指輪は!?)


 小鳥はローチェストの引き出しを開け、深紅の天鵞絨ビロードのリングケースを探した。階段状にカッティティングされたテーパードカットダイヤモンド、You are the one.(あなたは運命の人)と刻まれた、からの婚約指輪の行方を必死に探した。


「・・・ない」


 2024年6月22日に戻った小鳥の前から、の気配は全て消えてしまっていた。


(嘘・・・が・・・消えた)


 小鳥は、茫然と春蝉はるぜみの鳴き声に動きを止めていたが、はっ、と我に帰った。左手の薬指には、銀色シルバーのオリーブリーフバンドリングが光を弾いていた。


(そっ!そうだ!拓真は!?拓真はどうなったの!)


 小鳥はショルダーバッグを持つと、革の小鳥のキーホルダーが揺れる車の鍵を握った。黒と白のギンガムチェックのサンダルを履き、玄関のドアノブを握った。の、あのアパートは建っているだろうか、わん太郎は吠えているだろうか、コンビニエンスストアに幟旗のぼりばたは立っているだろうか?


(あぁ、もう!遅い!)


 ボタンを押し、エレベーターホールで待つが1階で手間取っているのだろうか、箱はなかなか上がって来なかった。しびれを切らした小鳥は、非常階段から1階まで駆け下りた。


「あっ!」


 小鳥はエントランスで山と積まれた荷物につまずきそうになった。新しく引っ越して来た入居者なのだろう、若い女性が会釈した。


「ごめんなさい!」


 印象が良くなかったかもしれないが、今はそれどころではない。一刻も早く、拓真のアパートに行かねばならない。ただ、気ばかり急くが物事が思うように運ばない。


(なんでこんな時に!)


 アパートの前には引越しのトラックが横付けされていた。小鳥はペールブルーの軽自動車の前で3往復してみたが、トラックからは洗濯機や冷蔵庫の大物家電が運び出されている真っ最中で、引越し作業員からは見向きもされなかった。


(駅まで行って・・・タクシーで!)


 小鳥が引越しトラックの陰から飛び出したその時だった。蟾蜍ひきがえるをひっくり返して潰した様な声と衝撃音がした。


「キャッ!」


 小鳥もその弾みで足元からよろけたが、引越しトラックのボディに身体をぶつけただけで、転倒する事はなかった。


「・・・い、痛いよ、小鳥ちゃん」

「拓真!」


 アスファルトの道路には、左手首にムーンフェイズの腕時計を着けた拓真が、クロスバイクと重なり合って倒れていた。










ミーンミンミンミンジー

ミーンミンミンミンジー




2024年7月7日




ミーンミンミンミンジー

ミーンミンミンミンジー




 熱したアスファルトに白い陽炎かげろうが立ち、ゆらりと足元が揺らめいた。首筋の汗をタオルで拭くサラリーマンの眼鏡に、11:30の日差しが反射する。白い日傘の高齢の女性は、隣に立つ帽子の男性と一言、二言、言葉を交わし、その少し前には、小さな子どもの手を引く母親の姿があった。子どもの白桃のような頬は紅潮していた。



ブロロロロ



 車のエンジン音が行き交う。対向車線には、自転車にまたがった高等学校の生徒らしき群れが愉しげにじゃれあっていた。


 歩行者信号機が赤信号から青信号へと変わる。


ピッポーピッポー 

ピッポーピッポー


 自転車は歩行者をけながらこちらへと向かって来る。機械の鳥のさえずりが蝉時雨せみしぐれき消され、やがて歩行者信号の青が点滅し、機械の鳥は鳴く事を止めた。



ブロロロロ



 セパレートの矢印式信号機がともり、赤信号に緑の直進矢印が表示された。


「・・・・・」


 小鳥の左手首にはパティップの腕時計、拓真の左手首にはムーンフェイズの腕時計があった。ムーンフェイズには、2024/7/7と表示されていた。


「・・・・・」


 小鳥と拓真のきつく繋いだ手のひらに汗がにじんだ。2人は対向車線の歩行者信号機の赤を凝視した。



ブロロロロ



 その時、地響きのようなエンジン音が近付いて来た。熱したアスファルトの路面に乱反射する真夏の日差し。



ブロロロロ



 小鳥と拓真の目の前を、黒いワンボックスカーがスピードを上げて通り過ぎた。小鳥の亜麻色あまいろの髪は風で舞い上がり、2人は無言でそのテールランプを見送った。


「・・・・・」


 手のひらの力が緩み、緊張で強張こわばっていた身体が安堵の溜め息を吐いた。


「終わったね」


 拓真が呟いた。


「うん、終わったね」


 小鳥も同じように呟いた。



ピッポーピッポー 

ピッポーピッポー



 歩行者信号機が青に変わった。機械の鳥の軽やかなさえずりを聞きながら、黒いギンガムチェックのサンダルと黒いスニーカーは、白い横断歩道を渡った。

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