2023年12月13日、細雪が降る早朝の出来事だった。拓真は、抱き締めていた小鳥の存在が薄れていくのを感じた。シーツの端から冷たい感触が広がり、言いようのない不安と孤独を感じた。ふと、どこからか騒がしい蝉の鳴き声が聞こえてきた。
ミーンミンミンジー
(・・・暑い)
汗が首筋を伝う。気が付くと拓真は、白い陽炎(かげろう)が揺れるアスファルトの道路に立っていた。
ミーンミンミンジー
(ここは?どこ、どこだ)
左手首には、
(そうだ、僕は小鳥ちゃんと、待ち合わせをしていて)
よくよく見れば、見慣れた街角。拓真は、自分がなにをしようとしているのか、薄らと思い出した。然し乍ら、どこに行く為の待ち合わせなのか、その記憶は曖昧だった。
(今、何時かな)
腕時計を確認すると、11:45だった。
(また、遅刻しちゃった)
どうやら、待ち合わせの時刻を過ぎているらしい。ムーンフェイズの月は顔を隠し始めていた。
(そうだ、新月が近いんだ)
拓真はその日の逢瀬で、小鳥と展望台に行き、星空を見ようと計画を立てた。
(小鳥ちゃん、喜ぶかな)
すると、機械的な小鳥が囀(さえず)り始め、歩行者信号が青色に変わった。
ピッポーピッポー
ピッポーピッポー
「あっ!拓真!」
横断歩道の向こうで、麦わら帽子を被った小鳥が、拓真の名前を呼んだ。
「拓真ー!おっそーい!お店が閉まっちゃうよ!」
店と聞いた拓真はようやく合点がいった。
「
全ての
「あっ!」
そこで小鳥は、高等学校の生徒が跨(またが)った自転車を避け、身体のバランスを崩した。
「小鳥ちゃん!早く!赤信号になっちゃうよ!」
ピッポーピッポー
ピッポーピッポー
青信号が点滅し、赤信号へと切り替わる歩行者信号。
ピッポーピッポー
その時、拓真の目の前を黒いワンボックスカーがスピードを緩める事なく通り過ぎた。一瞬の出来事だった。ワンボックスカーの赤いブレーキランプは一旦点いたものの次の瞬間には消え、中央分離帯のポールを薙(な)ぎ倒しながら走り去った。
(小鳥ちゃん?)
白い横断歩道に転がる、黒いギンガムチェックのサンダル。
「小鳥ちゃん?」
しわくちゃになった麦わら帽子。
「小鳥ちゃん!」
雲ひとつない真っ青な空に細長い筒が伸びていた。白い煙が南風にたなびき、それはやがて
(・・・・・小鳥・・ちゃん)
カナカナカナカナ
カナカナカナカナ
小鳥の告別式から帰宅した拓真は、喪服のままベッドへと倒れ込んだ。
あまりにも突然の別れに思考回路が追いつかなかった。
カナカナカナカナ
カナカナカナカナ
(小鳥ちゃん)
ヒグラシの鳴き声を聞きながら微睡(まどろ)んでいた拓真は、脚の爪先から這い上がる、氷の様な冷たさに目を覚ました。
(な、なに!?)
そこは人気(ひとけ)の無い寒々しいベッドの上だった。
「僕の、部屋」
乱れたシーツに微かに残る温もり。小鳥が好んで使っていた柑橘系のフレグランスの匂いがした。
(小鳥ちゃん!?)
リビングテーブルには、ペールブルーの小さなショップバッグとペールブルーの小箱、シャンパンホワイトのリボンがあった。その傍らには、白い
「小鳥ちゃん!」
拓真は大急ぎでTシャツにジーンズを履いて玄関を飛び出した。あまりに慌てた拓真の上半身はつんのめり、もう少しで階段を踏み外すところだった。
「嘘、なんだ・・・これ」
アパートのエントランスの扉を開けると、白と黒の世界が目の前に広がった。水気を含んだ重い雪が積もり、一歩踏み出すと拓真の黒いスニーカーは埋もれてしまった。
「寒い」
真夏から一転の雪景色、拓真はその寒さに震え上がり一旦部屋に戻った。部屋のハンガーにはショート丈のオーバーが掛けられ、玄関には防水のブーツがあった。
「今は、冬、どういう事?」
拓真は戸惑いながらもシャツを着てオーバーを羽織り、ブーツを履いてクロスバイクの鍵を手に取って玄関の扉を閉めた。ところが車道は轍(わだち)が縦横無尽に走り、クロスバイクに乗る事は難しかった。
「くそっ!」
拓真は大通りで流し営業のタクシーに手を挙げた。
「桜台児童公園の、ティアハイムまでお願いします!」
「駅に近い公園で宜しいですか?」
「はい!そこです!」
小鳥のアパートに横付けされたタクシーの後部座席から飛び降りた拓真は、その場に凍りついた。ティアハイム305号室のポストにはガムテープが貼られ、ネームプレートもなかった。そして、公園側の窓を窺(うかが)い見た拓真は愕然とした。
(・・・う。嘘だ)
小鳥の部屋の窓にはギンガムチェックのカーテンは掛かっておらず、”入居者募集”の貼り紙が貼られていた。拓真は力無く、雪が積もったブランコに腰掛けた。
(・・・小鳥ちゃん)
拓真はムーンフェイズの文字盤を見た。日付は
(意味が、わからないよ・・・)
細雪降る中、ブランコに揺られていた拓真は急な悪寒に立ち上がった。身体がガタガタと震え、歯の噛み合わせが歪になった。
(部屋に、帰ろう)
帰路は駅前に停車していたタクシーの後部座席のドアを叩いた。びしょ濡れのコートはタクシードライバーを嫌な顔にさせたが、背に腹はかえられなかった。
(・・・風邪薬、あったかな)
中敷きまで濡れたブーツは気持ちが悪かった。ぐちゃぐちゃと嫌らしい音を立てながら階段を登ると、視界が回った。拓真は、背筋を氷の塊で撫で上げられる様な感覚に身震いをした。
(・・・熱っぽいな)
全身が泥に沈む様な倦怠感に襲われた。拓真は急いで熱いシャワーを浴び、パジャマを着ると風邪薬を口に放り込んだ。
(小鳥ちゃん、小鳥ちゃんは・・どこに)
ガタガタと身体が震えた。
(・・・どこにって、交通事故に・・交通事故?)
朦朧とする意識の中で、有り得ない事に気が付いた。
(小鳥ちゃんが交通事故に遭(あ)ったのは夏だよね!?)
拓真はムーンフェイズの日付けを思い出した。
(2024年の7月・・・7日)
拓真はベッドから飛び出すとカーテンを引き、扉を開けた。
(でも、でも、今は!)
わん太郎が激しく吠えるその生垣には白い雪が降り積もり、電線から雪の塊が音を立てて落ちた。
(今日は、2023年12月13日!)
小鳥の死という、あまりの突然の出来事に気が動転していた拓真だったが、小鳥が事故に遭(あ)った日が2024年7月7日で、今、現在が2023年12月13日だという事をようやく認識した。
(だとしたら・・・小鳥ちゃんは、まだ生きている!)
その時だった。小鳥のミニッツリピーターの鐘の音が微(かす)かに聞こえた。
(小鳥ちゃん!?)
拓真は、弾かれるようにベッドから飛び起きて玄関の扉を開けた。
「・・・・・・え!?」
そこは満開の桜、驚きの光景が広がっていた。