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第98話 もうひとつの夏


 2023年12月13日、細雪が降る早朝の出来事だった。拓真は、抱き締めていた小鳥の存在が薄れていくのを感じた。シーツの端から冷たい感触が広がり、言いようのない不安と孤独を感じた。ふと、どこからか騒がしい蝉の鳴き声が聞こえてきた。






ミーンミンミンジー


(・・・暑い)


 汗が首筋を伝う。気が付くと拓真は、白い陽炎(かげろう)が揺れるアスファルトの道路に立っていた。


ミーンミンミンジー


(ここは?どこ、どこだ)


 左手首には、銀色シルバーのムーンフェイズの腕時計が光っていた。文字盤には、202477と表示されている。


(そうだ、僕は小鳥ちゃんと、待ち合わせをしていて)


 よくよく見れば、見慣れた街角。拓真は、自分がなにをしようとしているのか、薄らと思い出した。然し乍ら、どこに行く為の待ち合わせなのか、その記憶は曖昧だった。


(今、何時かな)


 腕時計を確認すると、11:45だった。


(また、遅刻しちゃった)


 どうやら、待ち合わせの時刻を過ぎているらしい。ムーンフェイズの月は顔を隠し始めていた。


(そうだ、新月が近いんだ)


 拓真はその日の逢瀬で、小鳥と展望台に行き、星空を見ようと計画を立てた。


(小鳥ちゃん、喜ぶかな)


 すると、機械的な小鳥が囀(さえず)り始め、歩行者信号が青色に変わった。



ピッポーピッポー

ピッポーピッポー



「あっ!拓真!」


 横断歩道の向こうで、麦わら帽子を被った小鳥が、拓真の名前を呼んだ。


「拓真ー!おっそーい!お店が閉まっちゃうよ!」


 店と聞いた拓真はようやく合点がいった。


だ」


 全ての欠片ピースが嵌(は)まった拓真は、小鳥に向けて大きく手を振った。小鳥も満面の笑みで片手を振りながら横断歩道を小走りで渡って来た。


「あっ!」


 そこで小鳥は、高等学校の生徒が跨(またが)った自転車を避け、身体のバランスを崩した。


「小鳥ちゃん!早く!赤信号になっちゃうよ!」


ピッポーピッポー

ピッポーピッポー


 青信号が点滅し、赤信号へと切り替わる歩行者信号。


ピッポーピッポー


 その時、拓真の目の前を黒いワンボックスカーがスピードを緩める事なく通り過ぎた。一瞬の出来事だった。ワンボックスカーの赤いブレーキランプは一旦点いたものの次の瞬間には消え、中央分離帯のポールを薙(な)ぎ倒しながら走り去った。




(小鳥ちゃん?)




 白い横断歩道に転がる、黒いギンガムチェックのサンダル。




「小鳥ちゃん?」



 しわくちゃになった麦わら帽子。



「小鳥ちゃん!」


 雲ひとつない真っ青な空に細長い筒が伸びていた。白い煙が南風にたなびき、それはやがてはかなく消えた。喪服姿の両親が祭壇の前で深々と頭を下げている。白いハンカチ、檜(ひのき)の数珠、拓真は溜め息をらした。


(・・・・・小鳥・・ちゃん)



カナカナカナカナ

カナカナカナカナ



 小鳥の告別式から帰宅した拓真は、喪服のままベッドへと倒れ込んだ。

あまりにも突然の別れに思考回路が追いつかなかった。



カナカナカナカナ

カナカナカナカナ



(小鳥ちゃん)




 ヒグラシの鳴き声を聞きながら微睡(まどろ)んでいた拓真は、脚の爪先から這い上がる、氷の様な冷たさに目を覚ました。


(な、なに!?)


 そこは人気(ひとけ)の無い寒々しいベッドの上だった。


「僕の、部屋」


 乱れたシーツに微かに残る温もり。小鳥が好んで使っていた柑橘系のフレグランスの匂いがした。


(小鳥ちゃん!?)


 リビングテーブルには、ペールブルーの小さなショップバッグとペールブルーの小箱、シャンパンホワイトのリボンがあった。その傍らには、白い天鵞絨ビロードのリングケースが置かれていた。蓋を開くと中にはシルバーのオリーブリーフバンドリングが輝いていた。


「小鳥ちゃん!」


 拓真は大急ぎでTシャツにジーンズを履いて玄関を飛び出した。あまりに慌てた拓真の上半身はつんのめり、もう少しで階段を踏み外すところだった。


「嘘、なんだ・・・これ」


 アパートのエントランスの扉を開けると、白と黒の世界が目の前に広がった。水気を含んだ重い雪が積もり、一歩踏み出すと拓真の黒いスニーカーは埋もれてしまった。


「寒い」


 真夏から一転の雪景色、拓真はその寒さに震え上がり一旦部屋に戻った。部屋のハンガーにはショート丈のオーバーが掛けられ、玄関には防水のブーツがあった。


「今は、冬、どういう事?」


 拓真は戸惑いながらもシャツを着てオーバーを羽織り、ブーツを履いてクロスバイクの鍵を手に取って玄関の扉を閉めた。ところが車道は轍(わだち)が縦横無尽に走り、クロスバイクに乗る事は難しかった。


「くそっ!」


 拓真は大通りで流し営業のタクシーに手を挙げた。


「桜台児童公園の、ティアハイムまでお願いします!」

「駅に近い公園で宜しいですか?」

「はい!そこです!」


 小鳥のアパートに横付けされたタクシーの後部座席から飛び降りた拓真は、その場に凍りついた。ティアハイム305号室のポストにはガムテープが貼られ、ネームプレートもなかった。そして、公園側の窓を窺(うかが)い見た拓真は愕然とした。


(・・・う。嘘だ)


 小鳥の部屋の窓にはギンガムチェックのカーテンは掛かっておらず、”入居者募集”の貼り紙が貼られていた。拓真は力無く、雪が積もったブランコに腰掛けた。


(・・・小鳥ちゃん)


 拓真はムーンフェイズの文字盤を見た。日付は20231213、拓真が小鳥にプロポーズした日だった。


(意味が、わからないよ・・・)


 細雪降る中、ブランコに揺られていた拓真は急な悪寒に立ち上がった。身体がガタガタと震え、歯の噛み合わせが歪になった。


(部屋に、帰ろう)


 帰路は駅前に停車していたタクシーの後部座席のドアを叩いた。びしょ濡れのコートはタクシードライバーを嫌な顔にさせたが、背に腹はかえられなかった。


(・・・風邪薬、あったかな)


 中敷きまで濡れたブーツは気持ちが悪かった。ぐちゃぐちゃと嫌らしい音を立てながら階段を登ると、視界が回った。拓真は、背筋を氷の塊で撫で上げられる様な感覚に身震いをした。


(・・・熱っぽいな)


 全身が泥に沈む様な倦怠感に襲われた。拓真は急いで熱いシャワーを浴び、パジャマを着ると風邪薬を口に放り込んだ。


(小鳥ちゃん、小鳥ちゃんは・・どこに)


 ガタガタと身体が震えた。


(・・・どこにって、交通事故に・・交通事故?)


 朦朧とする意識の中で、有り得ない事に気が付いた。


(小鳥ちゃんが交通事故に遭(あ)ったのは夏だよね!?)


 拓真はムーンフェイズの日付けを思い出した。


(2024年の7月・・・7日)


 拓真はベッドから飛び出すとカーテンを引き、扉を開けた。


(でも、でも、今は!)


 わん太郎が激しく吠えるその生垣には白い雪が降り積もり、電線から雪の塊が音を立てて落ちた。


(今日は、2023年12月13日!)


 小鳥の死という、あまりの突然の出来事に気が動転していた拓真だったが、小鳥が事故に遭(あ)った日が2024年7月7日で、今、現在が2023年12月13日だという事をようやく認識した。


(だとしたら・・・小鳥ちゃんは、まだ生きている!)


 その時だった。小鳥のミニッツリピーターの鐘の音が微(かす)かに聞こえた。


(小鳥ちゃん!?)


 拓真は、弾かれるようにベッドから飛び起きて玄関の扉を開けた。


「・・・・・・え!?」


 そこは満開の桜、驚きの光景が広がっていた。

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