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第96話 遺言

 小鳥の祖母、須賀菊乃すがきくのの搬送先は県立中央病院救急科だった。この病院はが黒いワンボックスカーに撥(は)ねられた時に運び込まれた場所だ。


(お祖母ばあちゃん!お祖母ばあちゃん!)


 2015年のこの病院は建て替え前らしく、夜の闇に聳(そび)える8階建の病棟はどこか気味が悪かった。救急搬送口にタクシーが横付けされ、小鳥は後部座席のドアを自分で開けて車外へと飛び出した。「ありがとうございました!」そして、乗車料金の精算を終えた拓真もその後を追った。


「小鳥!小鳥!こっち!」

「お、お母さん!」


 テラテラと照り返すビニールの廊下に映る白い蛍光灯。長椅子から立ち上がった母親は小鳥を手招きし、父親は拓真の姿を怪訝そうに見た。


「お祖母ばあちゃん、どうしちゃったの!?」

「急に心臓が痛いって、廊下で倒れたの」

「だ、大丈夫なの!?」


 救急科の電光掲示板には赤いランプが点灯し、治療室は慌ただしい。


「わ、分からない」

「分からないって!」


 そこでようやく拓真の姿に気付いた母親は拓真について訊ねた。


「小鳥、こちらの方は?」

「あ、あの」


 拓真は深々と頭を下げ、父親と母親の顔を交互に見た。


「小鳥さんと、お付き合いさせて頂いています。高梨拓真です」

「高梨、さん」

「はい」

「北國経済大学の1年です」

「あぁ、小鳥の学校のお隣の大学ね」

「同じ、読書サークルに所属しています」


 読書サークルと聞いた父親は、田中吾郎の件を思い出し急に不機嫌な顔になった。「ここまで小鳥を連れて来てくれてありがとう」と礼を述べた上で、「お引き取り願えないかな」と圧を掛けた。


「お父さん、そんな言い方って」

「小鳥は黙っていなさい」

「だって」


 ところが、そこで拓真は引き下がらなかった。それどころか小鳥も知らなかった、驚きの言葉を発した。


「菊乃さん。小鳥さんのお祖母ばあさんとはお会いした事があります」

「拓真、どういう事?」


 小鳥の両親も、突然の告白に顔を見合わせた。


「僕は、菊乃さんに助けて頂きました」

「え?」

「助けてもらったんだよ」

「助けてもらった?」

「うん」






 拓真は2012年の真冬、に失望して自死を選択した。凍える夕暮れ、学生服のブレザーを着た拓真は橋の欄干(らんかん)に寄り掛かりながら何時間もその場所で流れる川を眺めていた。鈍色(にびいろ)の空からは白い牡丹雪が弧を描いて舞い落ち、拓真の肩に降り積もった。


「あなた、お待ちなさい」

「え」


 不意に、赤い傘が差し出された。そこに立っていた人物こそ、小鳥の祖母の菊乃だった。手にはコンビニエンスストアで購入したビニール傘、そして白いポリエチレンの袋には湯気が上がる肉まんが入っていた。


「まだ高校生でしょう?そんなに生き急いでどうするの」

「放っておいて下さい」

「その時は必ず来るから、それまでお待ちなさい」

「それは僕の、寿命って事ですか?」


 赤い傘の柄(え)を持つ菊乃の左手首にはピンクゴールドの腕時計が光を弾いていた。それを見た拓真は目を見開いた。


「・・・・ミニッツリピーター」

「あなたは少し遠くまで来ただけ。焦らなくても大丈夫よ」

「あなたは誰ですか?僕の事を知っているんですか?」

「高梨拓真さんでしょう?」

「どうして」


 菊乃は微笑むと、自身の名を告げた。


「私の名前は、須賀菊乃と言うの」

「須賀、須賀さん!?」


 藤色の着物を着た白髪の女性は優しく微笑み、コンビニエンスストアの傘と白いポリエチレンの袋を拓真に手渡し、その後ろ姿は雑踏に紛れた。


「す、須賀さん!須賀さんは!小鳥ちゃんの!?須賀さん!」


 拓真はその背中を追い掛けたが、路地を曲がった所で見失ってしまった。


「・・・・」


 鼻先を赤くした拓真は悴(かじか)んだ指先で肉まんのグラシン紙をむしると、少し冷えた饅頭の皮に齧(かぶり)り付いた。涙が出た。






「それがお祖母ばあちゃんとの出会いなの?」

「そうだよ」

「お祖母ばあちゃんって、一体・・」


 その時、治療室の扉が開き、ドラマで良く聞く台詞せりふを看護師が叫んだ。


「ご家族の方!患者様がお呼びです!」


 治療室の中には、ビニールシート越しの祖母が青白い顔で横たわっていた。鼻腔にはチューブが差し込まれ、口元は酸素マスクで覆われていた。


(お、お祖母ばあちゃん)


 胸元や手首からは細長い線が何本も伸び、枕元の機械に繋がれ心臓の鼓動を弾き出していた。点滴パックから伸びるビニールチューブに落ちる一滴、一滴が不安を煽(あお)った。


「小鳥ちゃん、小鳥ちゃんは行かなくていいの?」

「だって・・・怖い」

「お祖母ばあちゃんが待っているよ?」


 祖母が父親に手招きをし、耳打ちをしているのが見えた。そしてゆっくりと、細く骨張った手首を上げ、廊下に立ち竦(すく)む小鳥を指差した。母親はビニールシートを捲(めく)り、忙しなく手招きをした。


「ほら、行かなきゃ!小鳥ちゃん!」

「小鳥!お祖母ばあちゃんが呼んでるから!早く来なさい!」

「で、でも」


 拓真に背中を押されて小鳥が足を踏み出すと、父親が顔を出した。


「高梨くんの事も呼んでる、来て下さい」

「・・・・え?」


 祖母は、小鳥と拓真を枕元へと招いた。ただ、その姿はまるで管に繋がれた蝋人形の様で、とても祖母の姿だとは思えなかった。


(これが、お祖母ばあちゃん?)


 小鳥は思わず尻込みをし、拓真はそんな小鳥の肩を両手で支えた。


「小鳥ちゃん、頑張ったわね」

「なに、なにを・・・頑張ったの?」


 祖母は拓真を虚(うつろ)な目で見て、薄らと微笑んだ。


「待っていて、よかったでしょう?」

「はい」

「思っていたよりも、少し早かったわね」

「はい」


 小鳥と両親は、祖母が拓真となにについて話しているのか分からず、戸惑った。


「高梨、くん。よく聞いて」

「はい」

「私の、に、行きなさい」

「四十九日」

「”新月”、だから」

「分かりました」

「小鳥と・・・戻る・・の」


 その時、祖母は大きく息を吸い、単調な機械音が寒々しい治療室に響いた。

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