枝に僅(わず)かに残ったアメリカ楓(かえで)の葉が、風に煽(あお)られ舗道へと落ちた。縁石に溜まった茶褐色の落ち葉を、クロスバイクのタイヤが踏む。鮮やかな橙(だいだい)から濃紺のグラデーションを描いた夕暮れの空には、ひときわ輝く金星があった。
「この先を曲がった所なんだ」
電柱の傍らには真っ赤なポストが立っていた。
「そ、そうなんだ」
小鳥の声が不自然に裏返った。
キィキィキィ
拓真は視線を小鳥から避け、遠くを見ながら恥ずかしそうに鼻先を指で掻いた。
「・・・・・」
「・・・・・」
小鳥の手には白い箱があった。中には真っ赤なイチゴで彩られた白いデコレーションケーキが入っている。直径は12cm、4号サイズ、2人で食べるには丁度良い大きさだ。その上には、ホワイトチョコレートで”拓真 誕生日おめでとう”と書いたチョコプレートが飾られている。
「ほら、あのアパートだよ」
薄茶のレンガで覆われた3階立てのアパート。薄暗い住宅街の中で、そのアパートの駐車場だけが煌々(こうこう)と明るかった。
「静かで良い所だね」
拓真は自転車置き場にクロスバイクを停め、鍵を掛けた。エントランスのガラス戸を開けると「どうぞ」と小鳥を招き入れ、郵便受けを確認する。
「・・・・201号室」
「角部屋で気楽だよ」
(205号室じゃないんだ、当たり前か)
ここはわん太郎がいるあのアパートではない。
「小鳥ちゃん、どうしたの?」
「初めてだから、緊張しちゃって」
「そ、そうだね」
2人は、拓真の部屋で誕生日を祝おうと、バースデーケーキを注文した。小鳥がこの部屋を訪れたのは初めての事だった。
「こっちだから」
「うん」
拓真のスニーカーの足音に続いて小鳥のスニーカーが階段を上った。真新しいコンクリートの匂い、ざらざらした感触が靴底から伝わって来る。
「ちょっと待ってて、今、開けるから」
「うん」
小鳥がその部屋番号を見上げていると、外廊下に鍵を落とす音が響いた。なんだろう、と見下ろすと、拓真が焦りながら床へと屈み込んでいた。
「・・・・えっ・・と」
慌てて立ち上がった拓真は、鍵穴にそれを差し込んだ。ところが鍵の形状が上下逆で、酷く手間取っている様子だった。
「どうしたの?」
「ちょ、ちょっと焦っちゃって」
「焦る・・・・」
「ごめん、待ってて」
拓真の右手は忙しなく動いた。
「そんなに慌てなくていいよ?」
「うん。でも、ケーキ持たせたままで、ごめん」
「大丈夫、軽いから」
ガチャ
大丈夫、と余裕を見せつつも、小鳥の緊張は高まった。初めて訪れる拓真の部屋、そして誕生日。今朝の小鳥は、生成り色のピンキングフリルをあしらった新品の下着を選んで身に着けた。
(なにかある訳じゃ無いけど!なにかあったら困るから!)
小鳥は、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「どうぞ」
「あ、はい」
声が上擦った。スニーカーを揃えて部屋を振り返ると、黒い家電製品にグレーのファブリック、柑橘系のシダーウッドの香が小鳥を迎えた。
「わぁ、懐かしい」
部屋番号は異なるが、室内の雰囲気は
「え、なに?聞こえなかった」
「ううん、男の子の部屋なのに綺麗に片付いているなあって思って」
「昨夜、慌てて片付けたんだよ」
確かに、部屋の隅には雑誌が雑然と山と積まれていた。片付けに励むその姿を想像するだけで、思わず笑みが漏れた。
「座ってて、今、お皿を出すから」
「うん」
小鳥の前に、白い花柄の大皿が置かれた。小鳥が喜ぶだろうと思い、ヒナギクによく似た花柄の皿を新調したのだと言った。
「よし!」
「出しましょう!」
「うん!」
小鳥と拓真は、デコレーションケーキの形を崩さない様に慎重に、爆弾処理班の如くそれを皿に盛り付けた。蝋燭(ろうそく)は20本、拓真は小鳥より1歳年上になった。
「ナイフは?」
「あぁ、包丁しかないや」
「えええ、雰囲気が台無し!」
「忘れてたんだよ」
「まさか、お箸で食べるとか言わないよね!?」
20本の蝋燭(ろうそく)に火を点け、少し音程がずれた”happy birthday ”の歌を口づさんだ2人は、炎を一気に吹き消した。
「お誕生日おめでとう!」
「ありがとう、小鳥ちゃん」
「・・・・」
そして2人は、頬をゆっくりと近付け、軽く口付けを交わした。拓真の蕩(とろ)ける笑顔に恥じらいが隠せない小鳥は、それを誤魔化す様に、トートバッグからプレゼントの箱を取り出した。
「はい!私からの誕生日のお祝いです!」
「ありがとう!わぁ、なんだろう!」
拓真は箱を膝に抱え、丁寧にセロテープを剥がし始めた。小鳥は拓真の横顔をわくわくしながら見つめ、拓真の指先は包装紙をゆっくりと開いた。中身は有名ブランドのロゴが印刷された長方形の黒い箱で、ずっしりと重かった。
「28,0cm」
「スニーカーって、意外と重いんだね」
「これって、これって!」
「うん!履いてみて!」
拓真は慌てて箱の蓋を開けると、薄い包み紙を掻き分けてベージュ色のスニーカーを取り出した。
「これって!」
「そう!拓真が履いていたスニーカーだよ!」
興奮で顔を赤らめた拓真は、靴紐を緩めると甲の部分をゆっくりと中に差し込んだ。人差し指を添えて踵(かかと)を押し込むと、小鳥の目の前で足踏みをして見せた。
「どう?」
「うん!いい感じ!」
そして、姿見の前に立つとスニーカーを履いた自身の姿を覗き見て腰に手を当てた。
「ありがとう!」
拓真はスニーカーを玄関に揃えて置き、笑顔で振り返った。
「ありがとう!小鳥ちゃん!」
「でも、ごめんね。黒が売り切れだったの」
嘘も方便だ。
「ううん!いつも同じ色ばっかりだったから嬉しい!」
「良かった!喜んでくれて!」
「大好き!大好き!小鳥ちゃん!」
「分かった!分かったから!」
拓真は、小鳥を背中から抱き締めると左右に振って狂喜乱舞した。あまりにもブンブンと振るものだから、小鳥の首は激しく前後し、千切れて落ちてしまいそうだった。
「ひや〜、もう目が回るよ!」
「あっ!ごめん!」
「あ!そうだ!拓真、ケーキが溶けちゃうよ!」
「忘れてた!」
拓真は台所から包丁を持ち出すと、ゆらりとリビングに姿を現した。
「包丁って、台所以外で見ると怖いね」
「怖いよね」
「拓真、早く切って!そして片付けて!」
拓真は包丁を握ると、白いバースデーケーキをゆっくりと切り分けた。慎重に刃先を挿れたつもりだったが力加減が難しく、繊細なクリームの飾りは崩れ、真っ赤なイチゴはテーブルへと転がった。
「あーあ」
「じゃあ、小鳥ちゃんが切れば良かったのに」
「こういうのは主人公がするものなの!」
「そんな事、聞いた事がないよ?」
しかも、小皿に取り分けたケーキは横に倒れ、小鳥は「あーあ」を連発した。
「はい!じゃあ、小鳥ちゃんはこっち!」
「うわーい!」
「こういうのは主人公が綺麗なケーキを食べるんじゃないの?」
「そんな事、決まってないよ?」
結局、拓真が無惨に倒れたケーキを食べる事になり、なんとなく腑に落ちない顔をした。「じゃぁ、仕方ないからこのチョコレートは拓真にあげる」と小鳥は偉ぶった。
「じゃあ、チョコレートは半分こね」
拓真がチョコプレートをふたつに割った。
「うわーい!じゃあ、こっちの大きいの頂戴!」
拓真はより一層、腑に落ちない顔になった。