小鳥と拓真が待ち合わせたこの日は2015年10月13日だった。シフォンケーキを堪能し、氷が溶けたグラスを持った拓真は左手首のムーンフェイズに視線を落とした。ペンダントライトに光を弾くシルバーの時計。
「あれ?月が・・・月が無い」
小鳥が不思議そうな面持ちで時計の文字盤を指差すと、いつも顔を覗かせていた黄色い月が表示されていなかった。
「どうして?」
「今夜は”新月”なんだよ」
「ふーん」
小鳥は興味深そうに時計を繁々と見た。
「月が見えないの?真っ暗だね」
「暗いから星がよく見えるよ」
「そうなんだ」
客の姿が1人、2人と消えてゆく。
「新月は月の年齢だと
「ふーん」
そこで小鳥は5月4日、バーベキューの夜の事を思い出した。見上げた夜空には丸い月が輝いていた。
「バーベキューの日は”満月”だったよね?」
「よく覚えているね」
「うん、ちょっとびっくりした事があって」
「そうなんだ、なにに驚いたの?」
「それは、うーん、内緒」
それもその筈。
「”満月”はどうやって”満月”になるの?」
「太陽と月の間に地球が並んで、月と太陽が180°の角度になった時に、”満月”になるんだよ」
「180°、ふーん、物知りだね」
「調べたからね」
5月4日の”満月”の日には、どんな意味があったのだろうか?小鳥はそんな事を考えながらムーンフェイズに手を伸ばした。そして拓真の手の甲を握りながら問い掛けた。
「拓真は拓真なの?」
「そうだよ、面白い事を聞くんだね」
客は小鳥と拓真だけになり、拓真は恥じらう事無く右手を小鳥の手の甲に重ねた。
温かい。目の前で微笑んでいるのは須賀小鳥であり、高梨拓真だった。今度は拓真が小鳥の顔を覗き込んだ。
「小鳥ちゃんは、小鳥ちゃんなの?」
「・・・・え?」
「小鳥ちゃんなの?」
「そうだよ?なんでそんな事、聞くの?」
そこでふっと笑った拓真は、レシートを手にレジスターへと向かった。小鳥も隣で財布を開いたが「今日は僕にご馳走させてよ」とはにかんだ。
「ご馳走様でした」
「美味しかったね」
「うん、美味しかった!紅茶のシフォンケーキ!お酒がちょっぴり入ってた!」
「ええっ!」
そう言われて見れば小鳥の脚はご機嫌で、ヒナギクの花束を振り回している。
「小鳥ちゃん、大丈夫なの?」
「多分!」
「多分って、これから行きたい所があったのに」
「えー、どこ!?」
拓真は月の無い黒い空を仰いだ。
「ちょっと階段を登るんだけど、歩けそう?」
「今なら、どこにでも行けそう!」
「心配だなぁ」
点々と続くオレンジ色の街灯、レンガ畳の細い路地を手を繋いで歩いた。
「あっ、あれ!あれに乗ろう!」
「小鳥ちゃん、飲酒運転だよ!」
「ブランコに飲酒運転なんてあるの!?」
「ない、ないと思うけど」
小鳥は小さな公園のブランコに座って地面を蹴り上げた。次第に勢いをつけ、夜空に向かって伸びる脚に、拓真は落ちるのではないかと心配して見守った。
「小鳥ちゃん!もう降りようよ!」
「ええ、やだ!」
「やだ、じゃないよ!僕、先に行っちゃうよ!」
「ええ、やだ!待って!」
慌てた小鳥がブランコから飛び降りようと前のめりになり、急にバランスを崩した。
「小鳥ちゃん!危ないっ!」
拓真が咄嗟の機転でブランコの鎖を支え、小鳥も板から転げ落ちる事は無かった。
「・・・・・」
そして拓真は地面にしゃがみ込み、小鳥はその面差しを見下ろしていた。
「・・・・・」
小鳥の瞼(まぶた)がゆっくりと閉じ、ぽってりとした唇が拓真を待った。ゆっくりと重なり合う吐息、ブランコがゆらゆらと揺れた。
小鳥と拓真は、夕飯を支度する美味しそうな匂いが漂う暗い住宅街を歩いた。
「へへ、キスしちゃったね!」
「小鳥ちゃん、そんな事は大きな声で言わないの!」
「へへへ」
「変な笑い方もやめてよ」
電柱2本分、少し先にコンビニエンスストアの明かりが見えて来た。一時停止の赤い交通標識。
「・・・・・」
2人は片側2車線の大通りに出た。行き交う自動車の白いヘッドライト、交差点で点灯する赤いブレーキランプ。
「・・・・・?」
するとそれまで機嫌の良かった拓真の面立ちが硬く変化し、握った手のひらにはジワっと汗が滲み始めた。
(・・・・どうしたんだろう)
ピッポーピッポー
ピッポーピッポー
機械的な小鳥の囀(さえず)りが歩行者信号の青を告げる。白い横断歩道。けれど拓真の足はアスファルトに貼り付いた様に動かない。
(まさか!?)
街灯の逆光でその表情は見えないが明らかに動揺が見て取れた。
(まさか、
黒いワンボックスカーが交差点で左折して来た。
「・・・拓真?」
黒いワンボックスカーを見送った拓真は小鳥を見下ろした。その表情は強張り、尋常ではなかった。
「小鳥ちゃん」
「な、なに・・・どうしたの?」
「あのね」
「どうしたの?なんだか怖いよ?」
拓真は緊張を解す様に息を大きく吸って深く吐いた。
「なんでもなかった。思い違い」
「間違っていたって事?」
「そう、間違ってた」
自動車信号機が黄色点滅から赤信号に変わると、拓真は小鳥の手を痛いくらいにしっかりと握り、横断歩道の白い線を力強く踏んで渡った。
(・・・なんだか変)
拓真は、酷く緊張して見えた。
(やっぱり、交通事故に遭った事を憶えている!?この拓真は、
然し乍ら、辻褄(つじつま)が合わなかった。2人は2023年の7月7日、キャンプ場で行われたバーベキューで初めて出会い、拓真は2024年の7月7日に交通事故に遭う。
(今は2015年の19歳、出会う筈がない)
小鳥は出会う筈のない、高梨拓真の横顔を見上げた。