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第91話 横断歩道

 小鳥と拓真が待ち合わせたこの日は2015年10月13日だった。シフォンケーキを堪能し、氷が溶けたグラスを持った拓真は左手首のムーンフェイズに視線を落とした。ペンダントライトに光を弾くシルバーの時計。


「あれ?月が・・・月が無い」


 小鳥が不思議そうな面持ちで時計の文字盤を指差すと、いつも顔を覗かせていた黄色い月が表示されていなかった。


「どうして?」

「今夜は”新月”なんだよ」

「ふーん」


 小鳥は興味深そうに時計を繁々と見た。


「月が見えないの?真っ暗だね」

「暗いから星がよく見えるよ」

「そうなんだ」


 客の姿が1人、2人と消えてゆく。


「新月は月の年齢だと0ゼロ、なにかを始めるには良い日なんだって」

「ふーん」


 そこで小鳥は5月4日、バーベキューの夜の事を思い出した。見上げた夜空には丸い月が輝いていた。


「バーベキューの日は”満月”だったよね?」

「よく覚えているね」

「うん、ちょっとびっくりした事があって」

「そうなんだ、なにに驚いたの?」

「それは、うーん、内緒」


 それもその筈。の誕生日に贈った時計を嵌めている、”メビウスの輪”の世界の拓真に出会ったのだから、その衝撃を忘れる事など無かった。


「”満月”はどうやって”満月”になるの?」

「太陽と月の間に地球が並んで、月と太陽が180°の角度になった時に、”満月”になるんだよ」

「180°、ふーん、物知りだね」

「調べたからね」


 5月4日の”満月”の日には、どんな意味があったのだろうか?小鳥はそんな事を考えながらムーンフェイズに手を伸ばした。そして拓真の手の甲を握りながら問い掛けた。


「拓真は拓真なの?」

「そうだよ、面白い事を聞くんだね」


 客は小鳥と拓真だけになり、拓真は恥じらう事無く右手を小鳥の手の甲に重ねた。


 温かい。目の前で微笑んでいるのは須賀小鳥であり、高梨拓真だった。今度は拓真が小鳥の顔を覗き込んだ。


「小鳥ちゃんは、小鳥ちゃんなの?」

「・・・・え?」

「小鳥ちゃんなの?」

「そうだよ?なんでそんな事、聞くの?」


 そこでふっと笑った拓真は、レシートを手にレジスターへと向かった。小鳥も隣で財布を開いたが「今日は僕にご馳走させてよ」とはにかんだ。


「ご馳走様でした」

「美味しかったね」

「うん、美味しかった!紅茶のシフォンケーキ!お酒がちょっぴり入ってた!」

「ええっ!」


 そう言われて見れば小鳥の脚はご機嫌で、ヒナギクの花束を振り回している。


「小鳥ちゃん、大丈夫なの?」

「多分!」

「多分って、これから行きたい所があったのに」

「えー、どこ!?」


 拓真は月の無い黒い空を仰いだ。


「ちょっと階段を登るんだけど、歩けそう?」

「今なら、どこにでも行けそう!」

「心配だなぁ」

 点々と続くオレンジ色の街灯、レンガ畳の細い路地を手を繋いで歩いた。

「あっ、あれ!あれに乗ろう!」

「小鳥ちゃん、飲酒運転だよ!」

「ブランコに飲酒運転なんてあるの!?」

「ない、ないと思うけど」


 小鳥は小さな公園のブランコに座って地面を蹴り上げた。次第に勢いをつけ、夜空に向かって伸びる脚に、拓真は落ちるのではないかと心配して見守った。

「小鳥ちゃん!もう降りようよ!」

「ええ、やだ!」

「やだ、じゃないよ!僕、先に行っちゃうよ!」

「ええ、やだ!待って!」


 慌てた小鳥がブランコから飛び降りようと前のめりになり、急にバランスを崩した。


「小鳥ちゃん!危ないっ!」


 拓真が咄嗟の機転でブランコの鎖を支え、小鳥も板から転げ落ちる事は無かった。


「・・・・・」


 そして拓真は地面にしゃがみ込み、小鳥はその面差しを見下ろしていた。


「・・・・・」


 小鳥の瞼(まぶた)がゆっくりと閉じ、ぽってりとした唇が拓真を待った。ゆっくりと重なり合う吐息、ブランコがゆらゆらと揺れた。




 小鳥と拓真は、夕飯を支度する美味しそうな匂いが漂う暗い住宅街を歩いた。


「へへ、キスしちゃったね!」

「小鳥ちゃん、そんな事は大きな声で言わないの!」

「へへへ」

「変な笑い方もやめてよ」


 電柱2本分、少し先にコンビニエンスストアの明かりが見えて来た。一時停止の赤い交通標識。


「・・・・・」


 2人は片側2車線の大通りに出た。行き交う自動車の白いヘッドライト、交差点で点灯する赤いブレーキランプ。


「・・・・・?」


 するとそれまで機嫌の良かった拓真の面立ちが硬く変化し、握った手のひらにはジワっと汗が滲み始めた。


(・・・・どうしたんだろう)



ピッポーピッポー

ピッポーピッポー



 機械的な小鳥の囀(さえず)りが歩行者信号の青を告げる。白い横断歩道。けれど拓真の足はアスファルトに貼り付いた様に動かない。


(まさか!?)


 街灯の逆光でその表情は見えないが明らかに動揺が見て取れた。


(まさか、には交通事故の記憶があるの!?)


 黒いワンボックスカーが交差点で左折して来た。


「・・・拓真?」


 黒いワンボックスカーを見送った拓真は小鳥を見下ろした。その表情は強張り、尋常ではなかった。


「小鳥ちゃん」

「な、なに・・・どうしたの?」

「あのね」

「どうしたの?なんだか怖いよ?」


 拓真は緊張を解す様に息を大きく吸って深く吐いた。


「なんでもなかった。思い違い」

「間違っていたって事?」

「そう、間違ってた」


 自動車信号機が黄色点滅から赤信号に変わると、拓真は小鳥の手を痛いくらいにしっかりと握り、横断歩道の白い線を力強く踏んで渡った。


(・・・なんだか変)


 拓真は、酷く緊張して見えた。


(やっぱり、交通事故に遭った事を憶えている!?この拓真は、なの!?)


 然し乍ら、辻褄(つじつま)が合わなかった。2人は2023年の7月7日、キャンプ場で行われたバーベキューで初めて出会い、拓真は2024年の7月7日に交通事故に遭う。


(今は2015年の19歳、出会う筈がない)


 小鳥は出会う筈のない、高梨拓真の横顔を見上げた。

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