レンガ畳の用水路沿いには小さな石橋が掛かり、オリーブの枝葉が揺れる白い土壁のカフェがあった。一方通行の車道に車の往来は無く、用水のせせらぎと店内で流れる緩やかなラウンジミュージックだけが聴こえる静かな空間だった。
(やっぱり拓真は、拓真なんだ)
カウンターは満席で、小鳥は屋外のテラス席で拓真の姿を待った。白い木製の椅子が軋(きし)んだ。携帯電話の時計はもう19:30、遅刻常習犯なのは
(んもう・・・・!)
10月の中旬ともなると流石に足元が冷えた。見るに見かねたサービススタッフが「お使いになりますか?」とタータンチェックのブランケットを貸してくれた。それでも脚が震える、鼻先が赤らんでいるのが分かった。遅刻して来たのだから、文句のひとつを言っても問題は無いだろう。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
ようやく店内に空きが出来、小鳥は窓辺のテーブル席に案内された。気を利かせてくれたのだろう、サービスでホットティーが差し出れた。立ち昇る温かな湯気、ダージリンの香にホッと一息吐いていると、ドアベルが軽やかな音で揺れた。
「こと、じゃない!須賀さん!遅れました!」
「・・・・!」
その手には白いヒナギクの花束を抱えていた。これまでと違って小振りだが、オレンジや黄色のヒナギクも添えられ可愛らしくアレンジされていた。ペールブルーのサテンリボンが結えられた花束、これだけで全てが許された。
「どうしたんですか、これ」
「きっ、記念に!記念日に買って来ました!」
「なんの記念なんですか?」
「どうぞ、受け取って下さい!」
顔を赤らめた拓真は小鳥の前に花束を差し出した。
「あ、ありがとうございます」
小鳥も椅子から立ち上がり、卒業証書授与式の如く、深々と頭を下げた拓真からその花束を受け取った。
(・・・あ、これ)
ヒナギクの香り、腕に感じる重さに胸がときめいた。
「あぁ・・緊張した!」
小鳥に花束を手渡した事に安堵した拓真は、椅子に腰掛けると薄切りのライムが浮かんだグラスの水を飲み干した。氷がカランと音を立てる。そこで拓真はおもむろに携帯電話を取り出した。
「はい、須賀さんも携帯電話出して下さい」
「は、はい?」
拓真の携帯電話の待受画面は黒猫だった。然し乍ら、それは仔猫のべべではなく成猫で、小鳥は時の流れを感じた。
(べべちゃんのお母さんかな?)
するとそこで、小鳥の携帯電話の画面に、LIMEメッセージの着信を知らせるバナーが浮き上がった。
(・・・これってまさか)
そこには愛の告白が綴(つず)られていた。
須賀さん好きです
付き合って下さい
小鳥が顔を上げると、拓真の顔は真っ赤に色付いていた。思わず笑みが溢れた。
「高梨さん、目の前に本人が居るのに、なんでLIMEなんですか?」
「僕、恥ずかしくて、言えなくて」
「だからってLIMEなんて」
「駄目、ですか?」
「駄目」
「ええっ!」
小鳥はヒナギクの花束を抱えながら微笑んだ。
「高梨さん」
「はい、なんですか」
「今度から高梨さんの事、拓真って呼んで良いですか?」
「はい、良いですよ」
「あと!私のことも、須賀さんじゃなくて小鳥って呼んで欲しいです」
「はい」
「あと、敬語も禁止」
拓真は天井を仰いだ。
「あーーーーー」
「うんうん」
「小鳥ちゃん、これで良い?」
拓真は戸惑うこと無くあっさりとその名前を呼んだ。
「・・・・・」
小鳥は急に不機嫌な面持ちになった。
「もうちょっと、恥ずかしそうに呼んで欲しかったな」
「だって、仕方ないよ、小鳥ちゃんは小鳥ちゃんだもの」
「仕方ないってなんで?」
「なんでって!仕方ないの!」
「・・・仕方ない」
「ほら、もう良いから!ほ、ほら、注文、注文!」
拓真は、なにかを誤魔化す様に焦りながら、ラミネートされた献立表を手に取った。そしてココアのイラストを指差した。
「小鳥ちゃんは
「ココア?」
「あれ?小鳥ちゃん、ココア好きだっ・・・」
拓真の動きが止まった。
「なんで私がココアを好きだって知ってるの?」
「え、と。指がココアを差して・・・たから」
(拓真、なんだか変)
確かに小鳥の指先はホットココアのイラストの上にあった。そこで小鳥は拓真に鎌(かま)を掛けてみた。
「拓真、甘いものが好きでしょ?」
「うん、好きだよ」
「1番好きなスイーツは
「うん、カヌレ、美味しいよね」
(嘘だ、そんな筈、ない)
カヌレが日本で注目され始めたのは2021年、大流行したのは2022年になってからだ。2015年の男子大学生がカヌレの存在を知っているとは思えなかった。
(この拓真は
「小鳥ちゃん、オーダーしようよ」
「あ、うん」
「ココアとコーヒー下さい。ブラックで」
そして、やはり拓真はブラックコーヒーを頼んだ。
「拓真、スイーツは頼まないの?」
「あっ!忘れてた!」
「忘れてたって、どうして忘れるかなぁ」
「ううーん、ショコラのケーキが売り切れになってるから迷ってるんだ」
そして、やはり優柔不断だ。店内は満席状態、サービススタッフが周囲を見回しながら、伝票を手に落ち着かなかった。気を利かせた小鳥が、拓真に提案をした。
「私は紅茶のシフォンケーキを頼もうかなぁ」
「あっ!それも美味しそう!」
「ほら、ショコラのシフォンケーキもあるよ?」
「じゃ、それにする!」
「紅茶とショコラのシフォンケーキを下さい」
オーダーが決められない客から解放されたサービススタッフは、溜め息を吐きながら席を離れた。
「それで?このヒナギクはなんの記念日なの?」
「小鳥ちゃんと僕がお付き合いする記念日だよ?」
拓真はそれは当然の事だと言わんばかりに、平然と答えた。小鳥は首を傾げた。
「ねぇ、拓真」
「なに?」
「もしかしたら、私が断る、とか考えなかったの?」
「うん?」
「失恋記念日になっちゃうよ?」
「そんな事ないよ」
甘い香りがトレーで運ばれて来た。
厚めにカットされたシフォンケーキの気泡は細かくふわふわで、拓真は早速カトラリーで切り分け始めた。ナイフが沈み込む感触はもちもちで、周りにはほろ苦いショコラクリームがたっぷりと塗られていた。
「小鳥ちゃん、美味しいよ!」
「失恋記念日になるとか思わなかったの?」
小鳥がオーダーした紅茶のシフォンケーキはしっとりとラム酒が匂い立ち、ほのかに鼻先をくすぐった。
「失恋するなんて思わなかった」
「なんで?」
拓真はカトラリーを皿に置いた。
「小鳥ちゃんは僕の運命の人だから」
You are the one.
小鳥はあの婚約指輪の刻印を思い出し、拓真は小鳥を凝視した。
You are the one.
(やっぱり
そして蕩(とろ)ける様な笑顔でテーブルに頬杖を突いた。
「あなたは誰なの?」
小鳥は思わず呟いていた。
「僕は僕だよ」
「僕・・・・」
「高梨拓真だよ」
ヒナギクの花弁(はなびら)が1枚、はらりとフローリングの床に落ちた。