小鳥の身体は動きを止めた。机の縁に指を掛け、膝に力を入れれば椅子から立ち上がる事が出来る。ただ、その時の小鳥はそれすらも難しく、本棚に並ぶ蔵書をただ、眺めていた。
(・・・・・)
なにも考える事が出来なかった。蔵書の題名を目で追うが、その意味が分からない、ただの文字の羅列だった。
(・・・・・)
今まで隣に感じていた熱と気配が消え、我儘(わがまま)な孤独感に苛(さいな)まれた。
(私が佐々木さんを傷付けた、私が自分で壊したんだ)
佐々木隆二との楽しかった日々を思い起こすと、後悔で胸が張り裂けそうになった。それでも小鳥は自分自身に言い聞かせた。
(私は、拓真とあの日の横断歩道を渡る為に、ここにいる)
佐々木隆二との事は、致し方がない。
(私、最低な人間だ)
小鳥が茫然としていると、縦長の窓から西陽(にしび)が差し込み、何本もの線がその身体を包み込んだ。周囲に舞い散る埃がキラキラと輝いて見えた。
(・・・天使の梯子(はしご)だ)
それはまるで天へと昇る梯子(はしご)、小鳥はその光景に目を奪われた。
カタン
その時、小鳥の斜め向かいの席に拓真が座った。そして肘を突き、文庫本の表紙を捲(めく)り始めた。陽の光に透ける長い前髪、まつ毛が瞼(まぶた)に陰を落とし、薄茶の目はページの文字を追っていた。
「・・・・・」
拓真はなにも言わなかった。ただその場所に座っているだけだった。
「・・・・・・」
小鳥の胸に熱いものが込み上げ、眉間にシワが寄った。
「・・・・・・」
口元が歪み、目頭に生温かいものが浮かび上がった。
「・・・・・・」
黒曜石(こくようせき)の瞳から、一筋の涙が静かに流れ落ちる。
「・・・・・・」
それは静かに頬を伝い、顎で雫となってテーブルを濡らした。それでも拓真は声を掛ける事なく、文庫本のページに目を落としたままだった。
「・・・・・・」
温かい涙はとめどなく頬に筋を引いた。気が付けば鼻水が垂れ、小鳥は慌ててトートバッグの中に手を入れたがハンドタオルもポケットティッシュも見つからなかった。
(・・・・・)
小鳥が両手で鼻を隠して泣いていると、拓真は無言で立ち上がり、しばらくして戻って来た。手にはゴミ箱とボックスティッシュ、箱には読書サークルと油性マジックで殴り書きがあった。
ビームビームズズズ
小鳥は恥ずかしさの一欠片(ひとかけら)をゴミ箱に捨てて、溢れ出る涙と鼻水をかみながら拓真の顔を見遣った。
(・・・・・)
拓真は、相変わらず無言で文庫本のページを目で追っていた。小鳥の視線に顔を上げる事もない。ただ、そこにいるだけだった。
「あの・・・」
それは丁度、文庫本の半分程度を読み終えた時の事だった。小鳥の涙も止まり、西陽(にしび)も隣の校舎の向こうに消え、図書館の中はすっかり暗くなっていた。
「なに?」
「高梨さんは、どうしてここに居るんですか?」
拓真は文庫本にしおりを挟むと、ようやく顔を上げた。
「佐々木に頼まれたんだ」
「佐々木さんに?」
「須賀さんが泣いているかもしれないから、側にいてやってくれって」
そこでまた、小鳥は大粒の涙を溢した。
「あぁ、でも、もう泣かないで欲しいな」
「・・・・うっ、うう」
「僕も須賀さんが泣いているのは見たくないよ」
「だっで、だっ」
小鳥はティッシュで頬を拭いた。
「それから、佐々木が謝ってたよ」
「謝るって、なにをですか?」
拓真は椅子を引くと立ち上がり、中腰で小鳥から目を逸らした。
「浮気してごめんって」
「う、うわき?」
「田辺先輩とも付き合っていたって言ってた」
「それって、二股ってことですか?」
「気が付いてなかったの?」
「ううっ」
「だから、もう泣かないで」
(佐々木さんが二股だなんて・・・そんな事、ない)
小鳥は泣いた。佐々木隆二はどこまでも優しく、小鳥を思い遣った。小鳥と佐々木隆二の破局の原因は小鳥にあった。然し乍ら、佐々木隆二は、自身が「田辺明美と浮気をして別れた」と周囲に触れ回った。
小鳥を庇(かば)ったのだ。
「・・・・・」
「もう、涙は止まった?」
「はい」
小鳥はようやく椅子から立ち上がった。余りに長時間、椅子に腰掛けていたので臀部(でんぶ)を腫れぼったく感じた。
(痛、いたたた)
関節も潤滑油が切れた機械の様だった。拓真はゴミ箱とボックスティッシュの箱をサークルの部屋に片付けると鍵を掛けた。そして、振り向くと「警備員室に鍵を返しに行くから着いて来て」とエレベーターのボタンを押した。相変わらず、エレベーターの床は軋んだ。
「高梨さん」
「なんですか」
「この前は、ありがとうございました」
「あぁ、田中先輩の事?」
「はい」
「大事(おおごと)にならなくて良かったよ」
ポーン
「でも」
「でも、なに?」
「どうして私が田中先輩といるって分かったんですか?」
「それは、たまたまだよ」
「たまたま、ですか」
「見かけたんだ」
「そうですか」
エレベーターから降りた廊下は暗く、互いの顔は薄らとしか見えなかった。2人の足音が反響する中、小鳥は核心に触れた。
「高梨さんは、いつも助けてくれますよね」
一瞬、拓真の息が止まった。
「そうかな」
「5月のバーベキューの時も、海に行った時も助けてくれました」
「覚えてないよ」
「転ばずに済みました、ありがとうございました」
拓真は小鳥の顔を見る事なく、警備員室の扉をノックした。そして、警備員に鍵を手渡すと、一言、二言、言葉を交わし、ノートにサークル名と氏名を記入した。
「高梨さん」
「駅まで送って行くから」
「あの、高梨さん」
エントランスは暗く、灯台躑躅(どうだんつつじ)の生垣にはセンサーライトが灯った。複数人の大学生や一般の通行人の姿はあるが10月ともなれば舗道は暗く、街灯の白い明かりが点々と並んでいるだけだった。拓真は自転車置き場からクロスバイクを引き出すと、小鳥の隣に並んだ。
「駅、近いですから大丈夫です。自分で行けます」
「もう、そんな事はないと思うけど、万が一って事もあるから」
「万が一?」
「田中先輩の事だよ」
小鳥はあの恐怖を思い出し、息を呑んだ。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
「お願いします」
小鳥の歩幅に合わせ、クロスバイクのチェーンリングの音が住宅街を歩いた。言葉を交わす事のない、2人の間には気不味い空気が漂った。
「あの」
沈黙を破ったのは拓真だった。
「はい」
小鳥が見上げると、鼻先を擦る恥ずかしげな拓真の横顔があった。その仕草は、拓真が照れ隠しをする時の動作だ。拓真は小鳥の顔を見ずに会話を続けた。
「たまたまじゃないんだ」
「・・・・え?」
「田中先輩の言う通りなんだ。いつも須賀さんの事を見てた」
「どうしてですか?」
すうと息を吸う音が聞こえた。そして拓真は意を決した様に口を開いた。
「守りたかったんだ」
「守りたいって、田中先輩からですか?」
「ちょっと違うんだけど、須賀さんを危ない目に遭わせたくない」
「よく、分かりません」
「ごめん、そうだよね」
街路樹が途切れ、2人の脚は、駅の改札口で止まった。
「じゃあ、また」
「あ、はい・・・おやすみなさい」
「おやすみ」
小鳥が拓真を守りたかったように、拓真も小鳥を守りたかったと言った。
(どういう事?)
戸惑う小鳥はその場に立ち尽くした。