落ち着かない小鳥は、佐々木隆二と約束した時刻よりも早く、ライブラリーセンターの図書館へと向かった。柞(いす)の木の床で、スニーカーのラバーソールがキュッキュと音を立てた。床に目を落として机の数を数えながら歩いていると、そのひとつに、
(馬に鹿、か)
それはまるで、今の自分に投げ掛けられた言葉のようで、小鳥は思わず苦笑いをした。
「須賀さん?」
そこには、驚いた面持ちの拓真がいた。
「高梨さん、どうしてここに?サークルですか?」
「いや、佐々木に呼び出されて」
「佐々木さんが、高梨さんを?」
「須賀さんは?」
「私も、佐々木さんと約束していて」
小鳥と拓真が顔を見合わせていると、革靴の音が近付いて来た。振り返るとそこには、思い詰めた表情の佐々木隆二が立っていた。その、怒りとも、悲しみとも表現し難い面持ちに、小鳥は息が止まった。
「佐々木さん、あの」
「小鳥ちゃん、拓真も座って」
「佐々木、これはなんなんだよ?」
「座れよ」
小鳥は、その有無を言わさぬ圧に従い、おずおずと椅子に座った。然し乍ら、拓真は佐々木隆二を見据えたまま姿勢を変えなかった。腕を組んだ佐々木隆二は机に寄り掛かり、小鳥を見下ろした。
「小鳥ちゃん。小鳥ちゃんと拓真は、知り合いなんだよね?」
「それは・・・」
「知り合いだよね?」
小鳥の目を覗き込む佐々木隆二の目は、(違うと言ってくれ)と懇願しているようにも見えた。
「あ、そうだ」
「はい」
「小鳥ちゃん、あんな事で怒ってごめんね」
「あんな事?」
佐々木隆二は、自嘲(じちょう)気味に薄ら笑いを浮かべ、前髪をかきあげた。
「一味唐辛子」
「一味唐辛子、ですか」
「一味唐辛子で怒るなんて、意味不明だよね」
「そんな事はないです」
「クラスの奴らにも笑われたよ」
「ごめんなさい」
「どうして小鳥ちゃんが謝るの?」
そして、その怒りの矛先(ほこさき)は、拓真にも向けられた。
「拓真、なんで小鳥ちゃんと知り合いだって言わなかった」
「知り合いなんかじゃない」
佐々木隆二の顔色が変わった。
「小鳥ちゃんが転んだ時、名前で呼んでたよな?」
「それは偶然」
「偶然な訳ないだろうっ!」
佐々木隆二の震える指先は本棚に手を掛け、一冊の蔵書を掴むと拓真へと投げ付けた。それは激しい音を立て、柞(いす)の木の床に落ちた。その行為に怯えた小鳥は両手で耳を塞(ふさ)ぎ、拓真は無言で本を拾い上げ机の上に置いた。
「拓真、おまえ、なんで小鳥ちゃんの跡をつけてた」
「・・・」
「小鳥ちゃんの事が好きだった、とか」
「そんな訳ないだろ!」
「デカい声、出すなよ」
「じゃあ、おまえも投げるなよ」
拓真は机の上に置いてあった本を、佐々木隆二の胸元に押し付けた。
「小鳥ちゃん」
「は、はい」
「小鳥ちゃんも、拓真の事が好きだったんじゃないの?」
「え、なんで」
3人の遣り取りを見ていた生徒たちは居心地が悪くなり、ひとり、ふたりと図書館から姿を消した。
「小鳥ちゃんは、いつもどこか遠くを見ていた」
「私、考え事をしていて」
「それは、拓真の事じゃないの?」
「そんな事は・・・」
「俺の事、どうでも良かった?」
小鳥は、その答えに一瞬、詰まってしまった。佐々木隆二は大きな溜め息を吐くと、悲しげに眉間にシワを寄せた。
「そんな事ないって、言って欲しかったな」
「ごめんなさい」
「謝られると、もっと辛い」
「ごめんなさい」
小鳥は両手でトートバッグを抱えて項垂れた。
「・・・」
「でも。小鳥ちゃんがそんな子だなんて、思ってもみなかったよ」
「・・・!」
「そんな子って、どういう意味だよ!」
「騙されたよ」
それまで顔を背けていた拓真だったが、佐々木隆二の小鳥への侮辱ともとれる言葉を耳にし、瞬発的にその襟元を両手で掴み上げていた。
音楽室では、吹奏楽部が管楽器の練習に励んでいる。時折、音が外れたバッハの”トッカータとフーガニ短調”が窓辺に届いた。
「小鳥ちゃんに謝れ!」
佐々木隆二は本棚に激しく押し付けられ、蔵書はバタバタと音を立てて床に散乱した。そこで、顔を顰(しか)めた佐々木隆二は、それ見た事かと口元を歪めた。
「拓真、今、なんて言った?」
「・・・え」
「
拓真は慌てた表情で佐々木隆二から手を離した。佐々木隆二は襟元を整えると、散乱した蔵書を拾い集め本棚に戻し始めた。
「・・・」
拓真も腰を屈め、それに倣(なら)った。
「やっぱり、拓真と小鳥ちゃんは、知り合いだったんだ」
「それは」
「それならそうと言ってくれよ」
「小鳥ちゃんも、どうして本当の事を言ってくれなかったの?」
「・・・」
佐々木隆二は、小鳥の隣の椅子にゆっくりと静かに座った。
「小鳥ちゃん」
「はい」
「俺と拓真、どっちを選ぶ?」
小鳥は目を見開いて佐々木隆二を見た。
「選ぶ、なんて」
「そんな事、最初から決まってるよね」
ふっと笑った佐々木隆二は、大きく息を吸って、深く吐いた。
「小鳥ちゃん、俺たち別れよう」
「え」
「別れよう」
「わか、れる?」
不義理な事をしていると知りながら、いざ「別れよう」と突き放されると都合の良い悲しみが込み上がる。喉が窄(すぼ)み、こめかみがドクドクと脈打った。
カタン
隣の気配が立ち上がった。
「小鳥ちゃん」
いつもと変わらぬ優しい声。小鳥がその面差しを振り仰ぐと、そこには悲しい瞳があった。
「やっぱり、泣いてくれないんだね」
佐々木隆二は踵(きびす)を返すと図書館を出て行った。
「佐々木!ちょっと待てよ!」
拓真は身を翻(ひるがえ)しその背中を追ったが、小鳥は振り返る事が出来なかった。