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第86話 分岐点③

 落ち着かない小鳥は、佐々木隆二と約束した時刻よりも早く、ライブラリーセンターの図書館へと向かった。柞(いす)の木の床で、スニーカーのラバーソールがキュッキュと音を立てた。床に目を落として机の数を数えながら歩いていると、そのひとつに、という文字が彫られていた。


(馬に鹿、か)


 それはまるで、今の自分に投げ掛けられた言葉のようで、小鳥は思わず苦笑いをした。


「須賀さん?」


 そこには、驚いた面持ちの拓真がいた。


「高梨さん、どうしてここに?サークルですか?」

「いや、佐々木に呼び出されて」

「佐々木さんが、高梨さんを?」

「須賀さんは?」

「私も、佐々木さんと約束していて」


 小鳥と拓真が顔を見合わせていると、革靴の音が近付いて来た。振り返るとそこには、思い詰めた表情の佐々木隆二が立っていた。その、怒りとも、悲しみとも表現し難い面持ちに、小鳥は息が止まった。


「佐々木さん、あの」

「小鳥ちゃん、拓真も座って」

「佐々木、これはなんなんだよ?」

「座れよ」


 小鳥は、その有無を言わさぬ圧に従い、おずおずと椅子に座った。然し乍ら、拓真は佐々木隆二を見据えたまま姿勢を変えなかった。腕を組んだ佐々木隆二は机に寄り掛かり、小鳥を見下ろした。


「小鳥ちゃん。小鳥ちゃんと拓真は、知り合いなんだよね?」

「それは・・・」

「知り合いだよね?」


 小鳥の目を覗き込む佐々木隆二の目は、(違うと言ってくれ)と懇願しているようにも見えた。


「あ、そうだ」

「はい」

「小鳥ちゃん、あんな事で怒ってごめんね」

「あんな事?」


 佐々木隆二は、自嘲(じちょう)気味に薄ら笑いを浮かべ、前髪をかきあげた。


「一味唐辛子」

「一味唐辛子、ですか」

「一味唐辛子で怒るなんて、意味不明だよね」

「そんな事はないです」

「クラスの奴らにも笑われたよ」

「ごめんなさい」

「どうして小鳥ちゃんが謝るの?」


 そして、その怒りの矛先(ほこさき)は、拓真にも向けられた。


「拓真、なんで小鳥ちゃんと知り合いだって言わなかった」

「知り合いなんかじゃない」


 佐々木隆二の顔色が変わった。


「小鳥ちゃんが転んだ時、名前で呼んでたよな?」

「それは偶然」

「偶然な訳ないだろうっ!」


 佐々木隆二の震える指先は本棚に手を掛け、一冊の蔵書を掴むと拓真へと投げ付けた。それは激しい音を立て、柞(いす)の木の床に落ちた。その行為に怯えた小鳥は両手で耳を塞(ふさ)ぎ、拓真は無言で本を拾い上げ机の上に置いた。


「拓真、おまえ、なんで小鳥ちゃんの跡をつけてた」

「・・・」

「小鳥ちゃんの事が好きだった、とか」

「そんな訳ないだろ!」

「デカい声、出すなよ」

「じゃあ、おまえも投げるなよ」


 拓真は机の上に置いてあった本を、佐々木隆二の胸元に押し付けた。


「小鳥ちゃん」

「は、はい」

「小鳥ちゃんも、拓真の事が好きだったんじゃないの?」

「え、なんで」


 3人の遣り取りを見ていた生徒たちは居心地が悪くなり、ひとり、ふたりと図書館から姿を消した。


「小鳥ちゃんは、いつもどこか遠くを見ていた」

「私、考え事をしていて」

「それは、拓真の事じゃないの?」

「そんな事は・・・」

「俺の事、どうでも良かった?」


 小鳥は、その答えに一瞬、詰まってしまった。佐々木隆二は大きな溜め息を吐くと、悲しげに眉間にシワを寄せた。


「そんな事ないって、言って欲しかったな」

「ごめんなさい」

「謝られると、もっと辛い」

「ごめんなさい」


 小鳥は両手でトートバッグを抱えて項垂れた。


「・・・」

「でも。小鳥ちゃんがそんな子だなんて、思ってもみなかったよ」

「・・・!」

「そんな子って、どういう意味だよ!」

「騙されたよ」


 それまで顔を背けていた拓真だったが、佐々木隆二の小鳥への侮辱ともとれる言葉を耳にし、瞬発的にその襟元を両手で掴み上げていた。


 音楽室では、吹奏楽部が管楽器の練習に励んでいる。時折、音が外れたバッハの”トッカータとフーガニ短調”が窓辺に届いた。


「小鳥ちゃんに謝れ!」


 佐々木隆二は本棚に激しく押し付けられ、蔵書はバタバタと音を立てて床に散乱した。そこで、顔を顰(しか)めた佐々木隆二は、それ見た事かと口元を歪めた。


「拓真、今、なんて言った?」

「・・・え」

って言ったよな」


 拓真は慌てた表情で佐々木隆二から手を離した。佐々木隆二は襟元を整えると、散乱した蔵書を拾い集め本棚に戻し始めた。


「・・・」


 拓真も腰を屈め、それに倣(なら)った。


「やっぱり、拓真と小鳥ちゃんは、知り合いだったんだ」

「それは」

「それならそうと言ってくれよ」

「小鳥ちゃんも、どうして本当の事を言ってくれなかったの?」

「・・・」


 佐々木隆二は、小鳥の隣の椅子にゆっくりと静かに座った。


「小鳥ちゃん」

「はい」

「俺と拓真、どっちを選ぶ?」


 小鳥は目を見開いて佐々木隆二を見た。


「選ぶ、なんて」

「そんな事、最初から決まってるよね」


 ふっと笑った佐々木隆二は、大きく息を吸って、深く吐いた。


「小鳥ちゃん、俺たち別れよう」

「え」

「別れよう」

「わか、れる?」


 不義理な事をしていると知りながら、いざ「別れよう」と突き放されると都合の良い悲しみが込み上がる。喉が窄(すぼ)み、こめかみがドクドクと脈打った。


カタン


 隣の気配が立ち上がった。


「小鳥ちゃん」


 いつもと変わらぬ優しい声。小鳥がその面差しを振り仰ぐと、そこには悲しい瞳があった。


「やっぱり、泣いてくれないんだね」


 佐々木隆二は踵(きびす)を返すと図書館を出て行った。


「佐々木!ちょっと待てよ!」


 拓真は身を翻(ひるがえ)しその背中を追ったが、小鳥は振り返る事が出来なかった。

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