田中吾郎は警備員からの通報で、最寄りの警察署に身柄を引き渡される事となった。赤色灯が回る警察車両に乗り込む田中吾郎は名残惜しそうに小鳥を一瞥した。歪んでいたとしても田中吾郎にとってはこれも愛情表現のひとつだったのだろう。
「ほら、乗りなさい」
「・・・・・・はい」
その一部始終を動画で撮影しようとする心無い携帯電話の数々。それらは事務員や教授陣に叱咤され、蜘蛛の子を散らす様にその場から消えた。
「さぁ、警備室に入りましょう」
「はい」
田中吾郎が小鳥に与えた、精神的かつ身体的苦痛に対する被害届を警察に提出するか否かは、小鳥とその保護者が話し合う事となった。小鳥は、警備員室のパイプ椅子に座り、父親の迎えを待った。
「大丈夫ですか?」
「はい、ありがとうございます」
「どうぞ」
警備員から差し出された湯呑み茶碗は温かく、ホッと心が落ち着いた。ただ、香り立つ緑茶が口角に沁みた。田中吾郎がハンドタオルを押し込んだ際に付いた傷だろう。小鳥は恐る恐るその部位に触れてみた。薄っすらと血が滲んだ。
「うっ、うっ、うっ、小鳥ぃ」
隣のパイプ椅子では村瀬 結 が、まるで当事者であるかの様に、目の周りを真っ赤に腫らして泣いていた。村瀬 結 の恋人でもある読書サークル代表の姿もあった。
「ごめんね、私が、私がサークルに誘ったりしたから」
「そんな事ないよ」
「ごめんね、ごめんね」
「気にしないで」
すると警備室の扉が開き、大学の保険医が医療セットを持って小鳥の真向かいに座った。
「大丈夫ですか?痛みませんか」
「少し、痛いです」
「曲げることは出来ますか?」
「出来ます」
「あぁ、でもあまり動かさないで」
「はい」
小鳥の両手首には、5本指の青痣(あおあざ)が目に分かる程、明瞭に付着していた。田中吾郎に廊下を引き摺(ず)られた際に付いた内出血だった。今更ながら、身の毛がよだつ。
「応急処置ですから必ず病院で診察を受けて下さい」
「はい」
小鳥の手首には湿布薬が貼られ、その冷たさに飛び上がった。丁寧に巻かれて行く白い包帯の感触に安心する。小鳥は、あの恐怖から解放されたのだと、心から安堵した。
「あと、後々必要になるかもしれませんから、医師の診断書は必ず貰って下さい」
「はい」
そこで小鳥は拓真の姿を探した。拓真の背中は、警備員室に隣接する警備員の休憩室にあった。
「それで、確認したい事がありますが」
「はい」
「なぜ、あの場所に・・・・君、ええと」
「・・・高梨拓真です」
「なぜ、高梨さんが居合わせたのかな?」
拓真はスチールデスクのパイプ椅子に浅く腰掛け、警察官から事情聴取を受けていた。
「それは」
小鳥が耳をそば立てていると、拓真は警察官に、「向かいの建物の渡り廊下が見えた。男性が女性を無理矢理連れ去ろうとしていると思った」と返答していた。
「そうですか」
「はい」
「それで高梨さんが警備員室に通報した、と」
「はい」
警察官は、ポケットから取り出した手帳に忙しなくペンを走らせていた。そして目線を上げると拓真の顔を訝(いぶか)しげに見た。
「田中吾郎さんは、あなたの事もストーカーだと言っていたそうですが、心当たりはありますか?」
「・・・それは」
拓真が言い淀むと警察官は同じ言葉を繰り返した。
「その様な心当たりはありませんか?」
「・・・ありません」
その不穏な遣り取りを聞いていた小鳥は、自分自身も気付かぬうちにパイプ椅子から立ち上がり、休憩室のドアを開け放っていた。また、その面差しは興奮で赤らんでいた。
「刑事さん!」
「はい?」
「私とその人、付き合っているんです!」
「え?」
小鳥は拓真を指差した。
「付き合っているんです!」
「はい?」
「その人と!高梨さんと私は付き合っているんです!だから大丈夫です!」
その勢いに警察官は動揺したが、それ以上に周囲に居た面々は驚いた。特に村瀬 結 は涙を流す事も忘れ顔を上げた。
「小鳥が・・小鳥が好きな人って、高梨さんだったんだ!?」
「そうなの!実は付き合ってて、隠していてごめんね!」
「・・・そ、そうなんだ」
「ね!高梨さん!」
村瀬 結 が小鳥と拓真の顔を交互に見ると、小鳥は引き攣(つ)った作り笑いで頷いた。
「そうですか」
「はい!」
「なら、問題はなさそうですね」
「はい!」
冷静な拓真に対し、小鳥の鼻息は荒かった。
「高梨さん」
「はい」
「今後、警察署で高梨さんのお話を伺う必要があるかもしれません」
「はい」
「その時は、よろしくお願い致します」
「はい」
警察官は小鳥の父親への事情説明の為、その場に待機する事となった。拓真は小鳥の斜向かいのパイプ椅子に腰掛けた。
「高梨さん、ありがとうございました」
その言葉を口にした瞬間、小鳥の黒曜石(こくようせき)の様な黒い瞳から美しい涙がポロポロと零れ落ちた。
「高梨さん」
たとえそれが”メビウスの輪”の世界の
「高梨さん、助けてくれてありがとうございました」
「須賀さんが無事で良かったよ」
「ありがとうございました」
「本当に、良かったよ」
拓真の口から搾り出す様な安堵の溜め息が漏れた。
(でも)
然し乍ら、小鳥には疑問が残った。
(どうして拓真が助けに来たの?私が危ないってどうして分かったの?)
自分が田中吾郎に連れ去られる姿を、拓真が偶然に目撃する確率はどれ程だろうか?
(そういえば・・・)
読書サークルのバーベキューで、小鳥が転倒しそうになった時、拓真は「小鳥ちゃん!」と叫んでその身体を支えていた。
(海に出掛けた時も)
小鳥は拓真を凝視した。
(まさか、本当に私の事を見ていた?)
それは田中吾郎の様な害を及ぼすものではないにしても、拓真は小鳥を常に見張っていた事になる。
(それは、なんで?)
小鳥はその横顔を、訝(いぶか)しげな面持ちで見た。