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第83話 慄く小鳥

 小鳥の手首を握っていたのは、田中吾郎だった。田中吾郎は2020年、”メビウスの輪”の向こう側の世界で24歳の小鳥に対し、付き纏(まと)いや待ち伏せなどのストーカー行為を繰り返した人物だ。また、現在の2015年でも、5月4日に開催されたバーベキューで、小鳥に執拗に男女交際を迫った相手でもある。よって、小鳥は田中吾郎に対して良くない印象を抱いていた。


「た、田中先輩」


 掴まれた皮膚から広がる怖気(おぞけ)、腕に鳥肌が立った。田中吾郎の目は嫌らしく歪み、口元には薄っすらと笑みを浮かべていた。


「田中先輩、はな、離して下さい」


 小鳥は佐々木隆二に聞こえないよう、小声で懇願した。すると田中吾郎は顔を小鳥の頬に近付けると至近距離で囁(ささや)いた。


「ねぇ、小鳥ちゃん」

「は、はい」

「男って仕様がない生き物なんだよ」


 その目は円柱の向こうを指していた。


「あんなに、小鳥ちゃん、小鳥ちゃんなんて言っておきながら、ほら、見てご覧」


 田中吾郎は小鳥の腕を引っ張ると、円柱と観葉植物の隙間から、佐々木隆二と田辺明美が仲睦まじくする姿を見せつけた。


「佐々木、田辺に言い寄られて付き合い始めたらしいよ?」

「佐々木さんが?」

「知らなかったの?可哀想に」

「佐々木さんが、まさか」


(田辺明美は拓真の恋人じゃなかった!?)


 この”メビウスの輪”の世界では、田辺明美と佐々木隆二が恋人になる運命決まり事だった。


(なら、横断歩道を一緒に渡る、拓真の恋人は誰なの!?)


 小鳥が予想に反した出来事に顔色を変えていると、田中吾郎は、小鳥が佐々木隆二の心変わりに対して衝撃を受けているのだと勘違いし、優しげな声色で話し掛けて来た。


「小鳥ちゃん、可哀想に」

「え」

「僕なら、小鳥ちゃんをこんな風に悲しませたりしないよ?」

「な、なんですか」

「ねぇ。小鳥ちゃん」

「た・・・田中先輩、離して下さい」


 小鳥がその手を振り解こうとすると、田中吾郎の手の力はより強いものとなった。


「ねぇ、小鳥ちゃん」


 その緊迫感に小鳥の動悸は激しくなった。田中吾郎の影がゆらりと揺れて見える。本能が”このままではいけない”と緊急事態を告げた。


「田中先輩、ご、ごめんなさい」

「なにがごめんなさい、なの?」

「私、田中先輩とは」

「僕とは?」

「田中先輩とは」


 次の瞬間、小鳥の腕は関節が外れるのではないかという勢いで振り回され、方向を変えた。田中吾郎の怒りに満ちた足音は、図書館とは逆方向へと向かった。小鳥の足は糸の絡まった操り人形の様にもつれ、引き摺(ず)られて行った。


「た、田中先輩!」

「それは許さないよ、小鳥ちゃん」

「なに、なにがですか!?」


 暗く沈み込んだビニール製の廊下に、小鳥のローファーの踵(かかと)がキュキュキュと音を立てた。小鳥は無我夢中で田中吾郎の手を振り払おうとしたが、その力には到底敵わず、握り拳は虚しく宙を切った。


「僕は待ってたんだ!」

「田中先輩!」

「キャンプ場で佐々木と小鳥ちゃんが付き合ってから待ってたんだ!」


 田中吾郎は語気を荒げた。


「田中先輩!」

「次は僕の番だって!」

「先輩!」

「僕が小鳥ちゃんと付き合うんだって待ってたんだ!」


 一瞬、振り向いたその目は理性を失っていた。小鳥は身体の芯から震え、これからなにが起きるのだろうかと、首を左右に激しく振って抵抗した。それでも田中吾郎の暴挙に抗(あらが)う事は難しく、恐怖で声を発する事も出来なかった。


「・・・!」


 田中吾郎は薄暗い廊下の突き当たりの、”書庫”とプレートが掲げられた古めかしい鉄の扉を開けた。そのノブは鈍い音を立て、滅多に人が立ち入らないであろう事を示唆していた。


「・・・たっ!」


 部屋の中は埃臭く真っ暗だった。


「小鳥ちゃん!好きなんだ!」

「い、いやっ!」

「嫌なんてもう言わせないよ」


 小鳥はスチール戸棚に激しく押し付けられ、鈍い金属音が小部屋に響いた。小鳥の後頭部は衝撃を受け、激しい痛みを感じた。


「やっ!」


 両腕が抑え付けられ、身動きが取れない。ありったけの力でもがいたが意味がなかった。次の瞬間、小鳥の唇に表面がカサついた弾力のある物が触れた。


「・・・んんっ!」


 気味の悪い生温さは次第に強く押し付けられ、やがて唇の隙間に舌先の感触を捉えた。小鳥はそれだけは許すまいと力の限り唇を結んだ。


「小鳥ちゃんは、もう僕のものだよ」

「・・・・んっ!」


 再び、悪寒が小鳥を襲った。その時だった。廊下の端から、扉をひとつひとつ開けては閉める音が響いて来た。ビニール製の廊下を勢いよく蹴る複数の足音。なにかを探している様だった。


「しっ、静かにして!」


 田中吾郎は小鳥を抱き竦(すく)めると部屋の隅に縮こまった。そして小鳥が声を出さない様に口の中にハンドタオルを押し込んだ。


「んっつ!んっ!」

「小鳥ちゃん、静かにして」

「んん」

「静かにしないとどうなるか分かってるよね」

「んーんーっ!」


 鉄の扉を開閉する音が近付いて来た。


「んん!んー!」


 ”書庫”の鉄の扉が勢いよく開き、二筋のライトが暗闇を縦横無尽に横切った。部屋の隅に蹲(うずくま)る人影。小部屋の電気のスイッチに手を遣ると、蛍光灯の明かりがパチパチと点滅し、田中吾郎の背中を浮き上がらせた。


「君!なにをやっているんだ!」

「ひっ、なっ、なにも!」

「その女性はなんだ!」

「こ、これは!」


 2人の警備員は小鳥の口の中にハンドタオルが詰め込まれている事を確認し、顔を見合わせ頷いた。


「ちょっと警備室まで来てもらおうか?」

「い、いやっ!ただ彼女といただけで!」

「いいから、話は警備室で聞くから、立ちなさい」

「・・・・・」

「立ちなさい!」


 田中吾郎は、2人の警備員に半ば強制的に立たされると、両脇を抱え上げられ廊下に引き摺(ず)り出された。


「ほら!歩きなさい!」

「ぼ、僕はただ・・!あっ!」


 そこで田中吾郎の怒声が響いた。


だって小鳥ちゃんのストーカーだろ!」

「歩きなさい!」

小鳥ちゃんの周りをうろつき回って!おまえこそストーカーだよ!」

「君、いい加減にしないか!ほら、歩いて!」


 小鳥の口に押し込まれたハンドタオルは涎(よだれ)で汚れ気持ち悪かった。


「・・・・っ」


 ハンドタオルを口から取り出した小鳥はスチールデスクに掴まり立ち上がろうとしたが、脚は恐怖で小刻みに震えていた。そこで耳を疑う名前が飛び出した。


「おまえだって!ストーカーだよ!!」


(・・・・・え!?高梨!?)


 小鳥が、床に四つん這いになって扉へ向かうと、警備員に連れ立たれ項垂れる田中吾郎、そして逆光の中に無表情の拓真が立っていた。


「高梨、さん」

「須賀さん、歩ける?」

「ちょっと、ちょっと無理そうです」

「じゃあ、掴まって」


 小鳥の華奢な手首には、田中吾郎が握ったと思しき指の痕が残っていた。それを見た拓真は顔を背け、小鳥の肘に手を添えるとゆっくりと床から引き揚げた。


「ゆっくりで良いから」

「はい」


 小鳥は、壁に身体を預けながら薄暗い廊下を進み、眩(まばゆ)い渡り廊下へと向かった。


「・・・・あ」


 そこには騒ぎを聞き付けた読書サークルのメンバーや、図書館の利用者が「なにがあったんだ」と集まり小鳥の姿を見た。壁にもたれ掛かる小鳥の身なりは酷く乱れ、異常事態が起きた事を指し示していた。


「ほら、なんでもないから。散った、散った!」


 野次馬の群れを手で追い払ったのは、佐々木隆二だった。そして羽織っていたパーカーを脱ぐと、小鳥の肩に掛けた。


(佐々木さん)


 それはほんのりと温かかった。


「ささ、佐々木さん、あの・・・・・」

「小鳥ちゃん、また連絡するから」

「・・・・・・」

「連絡するよ」

「はい」


 佐々木隆二は拓真の肩を軽く叩いた。


「拓真、頼んだぞ」

「・・・・あぁ」

「佐々木さん」

「連絡するから」


 佐々木隆二は、閉まり掛けたエレベーターの扉の向こうで悲しげに微笑んだ。

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