小鳥と佐々木隆二が黒塗りの盆に箸を置き、外の様子を伺い見ると、空は既に薄暗くなっていた。駅前通りを行き交うタクシーの白いヘッドライトと赤いテールランプが光の川の様で、ガラス窓にほっと一息付いた2人の顔が映った。
「美味しかったね」
「はい」
「やっぱり黒酢あんかけにして良かったでしょ?」
「佐々木さんの”変顔”も見られました」
「それは言わないの!」
眉間にシワを寄せた佐々木隆二が両手を広げ、小鳥の頬を両側から押し潰した。それこそ”変顔”になった小鳥は勢いで「ぶっ!」と妙な声を出し、慌ててその手を押し退けた。
「や、やめて下さい!」
「小鳥ちゃんの”変顔”見ぃちゃった!」
「も、もう!」
そこで店員が「お水のお代わりはいかがですか?」と声を掛け、すっかり氷が溶けたグラスを持ち上げた。
「あ、ありがとうございます」
ふと気が付けば、レジスター脇の観葉植物の陰に、数組の順番待ちが並んでいた。佐々木隆二にその旨を伝えると振り返り、「もう食べ終わったから店を出よう」という事になった。
「・・・・あ」
小鳥がスカートの裾を気にしながら席から立ち上がると、そのタイミングで佐々木隆二が食事の伝票を指先で摘んだ。
「さ、佐々木さん!私も、私が払いますから!」
「いいよ、いいよ」
「じゃあ割り勘で!」
すると、佐々木隆二が苦笑いをして振り返った。
「女の子にそんな事させられないよ、俺が誘ったんだから俺が払うよ」
「え、でも」
「そんな事より、その子、忘れないでね」
小鳥が座っていたベンチシートには、赤いリボンを結えた灰色のコツメカワウソが、黒い瞳で見上げていた。
「あっ、忘れるところだった!」
「忘れないでよ、もう」
「ごめんなさい」
小鳥が抱えるコツメカワウソのぬいぐるみを見て、順番待ちの子どもが「僕も欲しい」と駄々を捏(こ)ね始めた。
「さ、佐々木さん!ご馳走様でした!」
「いいの、良いの。今度は小鳥ちゃんのお弁当を期待してるから」
「分かりました!」
自動ドアを踏むと生温い風が首に纏わり付いた。
「もう、梅雨本番って感じだね」
「そうですね」
「梅雨明けはいつかなぁ」
「今年は早いみたいですよ」
「マジ!?」
佐々木隆二は目を輝かせた。
「なにか楽しい事でもあるんですか?」
「夏と言えば!」
「夏と言えば?」
歩行者信号機が機械音の鳥の囀(さえず)りで赤信号を報せた。
ピッポーピッポー
ピッポーピッポー
「夏と言えば海!」
「海ですか」
どちらかといえば、自宅で過ごす事が多い小鳥には縁のない季語、それは海。
「・・・海ですか」
「え!?なに、小鳥ちゃん、海に行かないの!?」
「暑いのに、わざわざ暑い砂浜に行くなんて非生産的な事はしません」
「小鳥ちゃん!なに言ってるの!暑い砂浜の向こうは太平洋!大海原!海は気持ちいいよ!」
「・・・はぁ、海、ですか」
歩行者信号機が青に変わった。どうやら佐々木隆二は小鳥を海に誘い出したいらしい。然し乍ら、海は遠い。電車もバスも乗り継ぎが必要だ。
「海で遊んだ後、電車に乗るのもバスに乗るのも嫌です」
「あぁ、砂だらけだし、塩々でベタベタするから気持ち悪いよね」
「はい、それだけでもうんざりします」
横断歩道を渡った2人は、駅のコンコースで行き先案内板を見上げた。小鳥の乗る電車と、佐々木隆二の乗る電車は逆方向だった。小鳥が「ありがとうございました。おやすみなさい」と口にする以前に、佐々木隆二は乗車券自動販売機の行列に並んだ。
「え、ちょっ!佐々木さん!?」
「俺も南方面の電車に乗るよ」
「逆方向ですよね!?」
「そうだよ」
佐々木隆二は小鳥の戸惑いを、1枚、2枚と硬貨に変えて乗車券自動販売機の硬貨投入口に落としていった。
「どうしたんですか?」
「どうしたって、こんな夜に女の子1人で帰せないよ」
「もう、子どもじゃないんですから。大丈夫ですよ!」
すると佐々木隆二は大きな溜め息を吐き、乗車券自動販売機から吐き出された2枚の切符を受け取った。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
手渡された切符に佐々木隆二の指先の温かさを感じた。
「良いんですか?」
「俺が小鳥ちゃんと一緒に居たいんだよ」
「・・・・・・・」
佐々木隆二は
(佐々木さんには、申し訳ないな)
「ほら、小鳥ちゃん!電車が来たから!起きて!」
「起きる、起きる・・・ですか?」
「小鳥ちゃんは時々、寝てるよ」
佐々木隆二はそう言って爽やかに笑った。
「寝て、ますか?」
「なんだかぼんやりを通り越して寝ているみたいだよ、危なっかしくて見ていられないよ」
「ごめんなさい」
「夜更かししてるんじゃない?」
「ちゃんと・・・寝ていると思います」
プシュー
夜を走る電車の窓に、吊り革に掴まる小鳥と佐々木隆二の姿が映った。佐々木隆二は、小鳥より頭ひとつ分背が高い。その顔を見上げると、明らかに拓真より上背があった。
(当たり前だけど、全然違う)
線路の枕木(まくらぎ)が規則的な音を刻み、小鳥の心臓を揺さぶった。視線に気付いた佐々木隆二は優しげに微笑む。
(これが本当の恋だったら良かったのに)
「小鳥ちゃん、また寝てる」
そう言って笑う。
「起きてます!」
この優しい佐々木隆二を欺(あざむ)いている。小鳥の胸は細い針で刺された様にチクリと痛んだ。
「あ、ここで降りるんだよね」
「はい」
小鳥が降りる駅が近付いて来た。アナウンスに気付いた佐々木隆二の手のひらが背中に触れた。「降りよう」という事らしい。
(でも、嫌じゃない)
その手のひらの温かさは心地良かった。
「家はどっち?」
「あ、ここで良いです」
「ここまで来て「バイバイ」はないよ?それとも俺が家に行くのは嫌?」
「・・・そんな事はないです」
「じゃあ、行こう」
小鳥と佐々木隆二は手を繋ぎ、電柱を数えながら歩いた。雲の切れ間から半月が顔を覗かせていた。
「半分の月だね」
「上弦(じょうげん)の月って言うんですよ」
「そうなの?」
黒い画用紙を切り取った様な白い月が2人を見下ろしていた。
「縦に半分、ほら丸いところが上ですよね?あれが弦(つる)みたいに見えるから、上弦(じょうげん)の月なんだそうです」
「物知りだね」
「お
「そうなんだ」
佐々木隆二は、小鳥の自宅まであと僅かという距離で手を離した。
「やっぱり家は内緒にしておこうか」
「どうしてですか?」
「毎日、小鳥ちゃんに会いに行っちゃいそうだから」
声は笑っていたが、街灯の逆光で面立ちは不明瞭(ふめいりょう)だった。近付く薄茶の瞳、小鳥は腕に抱いていたコツメカワウソを佐々木隆二の顔に押し付けていた。
「ぶっ!」
「ご、ごめんなさい!ま、まだ!」
佐々木隆二は襟足を掻くと「ごめんね」と言って手を振った。
「お、おやすみなさい!」
「おやすみ!またね!」
小鳥は、佐々木隆二の口付けを受け入れる事が出来なかった。