小鳥は、ラミネートされた献立表と睨めっこをしていた。昼下がりのレストランは落ち着きを取り戻し、木製のブラインドからは初夏の日差しが差し込み、テーブルに横縞の影を作った。
「うーん、佐々木さん、ちょっと待って下さい」
「良いよ、ゆっくり選んで」
小鳥が悩むのも無理は無かった。このフランチャイズの和風料理店は、2023年に経営不振に陥り廃業していた。小鳥はこの店舗の献立を好み、また、家族で訪れた思い出が詰まった場所だった。「・・・え。嘘」倒産廃業を新聞で読んだ時は少なからずとも衝撃を受けた。その献立が目の前にある!小鳥は感動した。
(また!また、この料理が食べられるとは!)
小鳥は、タイムリープも満更(まんざら)悪いものではないと唾を飲み込んだ。
「厳選ポークのロースカツおろしポン酢!」
サクサクの衣に包まれた程よい厚さのロースカツと大根おろし、自家製ポン酢のセット。そして艶々ふっくらの白ご飯と、わかめと豆腐の味噌汁、お新香付き。
ごくり
ロースカツをポン酢にさっと漬けて一気に頬張るも良し!大根おろしを軽く混ぜたポン酢にロースカツをひたひたに浸し、熱々の白ご飯に乗せて頂くのも良し!
「鶏と野菜の黒酢あん!」
素材の味を活かした素揚げの蓮根、那須、人参、さつまいも。そして柔らかくジューシーに揚げた一口大の鶏肉、それ等を黒酢あんで絡めた一品。勿論、白ご飯と味噌汁、お新香がセットで付いて来る。
小鳥の目は泳ぎに泳いだが、佐々木隆二の鶴の一声でようやく決まった。
「小鳥ちゃん、その黒酢あんかけ・・南蛮漬けと似てない?」
「南蛮漬けとは、違います!」
「でも、それっぽいよ?」
「ううーん」
「小鳥ちゃんの口はもう黒酢あんの口でしょ?」
小鳥の目はもう一度左右に動き、献立表を静かに閉じた。
「決まった?」
「はい、黒酢あんで」
「でもロースカツも食べたいんでしょう?」
「うっ、そ、それは」
「俺のロースカツを一切れあげるよ、鶏肉と交換ね」
小鳥の目は輝いた。
「えっ!良いんですか!?」
「良いよ、でも、そんなに喜ぶところ?」
「ひっ、久し振りに、ここのご飯食べるので興奮してます!」
佐々木隆二は片手を挙げ、”厳選ポークのロースカツおろしポン酢”と、”鶏と野菜の黒酢あん”を注文した。そして怪訝そうな顔をした。
「久し振りっていつ来たの?」
「・・・・え?」
「このフランチャイズ店、先月オープンしたばかりだよ?」
「・・・あっ!」
小鳥は、この系列の店舗が2015年6月に開業したばかりだという事を知らなかった。慌てた小鳥は「間違えた」と訂正し、先日、両親と食べに来たのだと誤魔化した。
「そうかぁ、来た事あるんだ。別の店にすれば良かったね」
「いいえ!この前は”ざる蕎麦”を食べたので、”黒酢あん”食べたかったんです!」
「それなら良かった」
小鳥が嫌な汗をかいていると、次々に黒塗りの盆が運ばれて来た。揚げたてのロースカツの匂いと、黒酢あんの程よい酸っぱさが食欲をそそった。佐々木隆二は箸でロースカツを摘むと一口分に切り分け、小鳥の口の前に差し出した。
「なんですか、これ?」
「これって、あれだよ」
「あれって、あれですか」
「そう、はい、あーん」
小鳥は顔を赤らめて周囲を見渡した。誰一人としてこちらを気にする様子など無いのに、誰も彼もが小鳥を注視している様に思えて動揺した。
「さっ、佐々木さん」
小鳥は思わず小声になった。
「なに?」
佐々木隆二は平然とした顔付きで、テーブルに肘を突いて和(にこや)かに微笑んでいる。照れ臭く、困り顔の小鳥は視線をテーブルに落とした。黒酢あんかけの酸っぱさが鼻をくすぐった。
「はい、あーん」
「・・・・・・」
「どうしたの?」
「あ、熱くないですか?」
「あぁ、揚げたてだから熱いかも。俺がフゥフゥしようか?」
「えっ!いえ!わ、私が自分で!」
小鳥は唇を尖らせると、息をフゥフゥと吹きかけた。目線を上げると、佐々木隆二も唇を尖らせて見せている。
「い、いただきます」
「召し上がれ」
唇に触れるサクサクの衣。小鳥は、恐る恐る口を開けるとロースカツをゆっくりと噛んだ。染み出す肉汁、程よい歯応え、思わず頬が緩んだ。
「どう?美味しい?」
「おいふぃぃ!」
「小鳥ちゃんって、本当に美味しそうに食べるよね」
「・・・・・!」
「なに、今更恥ずかしいの?」
小鳥はロースカツを咀嚼(そしゃく)しながら首を縦に振った。すると、佐々木隆二は小鳥と自分の口を交互に指した。小鳥が首を傾げると、どうやら鶏肉を食べさせて欲しいと言っている様だった。
「私が、佐々木さんに!」
「そんなに驚く事?」
「や、だって」
「はい、交換でしょ。あーん」
佐々木隆二は、雛鳥(ひなどり)が親鳥に嘴(くちばし)を開けるように口を開けて見せ、指を差した。小鳥は意を決して箸を持つと一番大きな鶏肉を摘み、その口へと運んだ。
「あ、あーん」
小鳥も思わず「あーん」と声に出し、照れ臭さで耳まで赤らんだ。佐々木隆二は大きく頷くと更に口を大きく開けた。
「ふ、ふぐっ!?」
小鳥が恥ずかしさで目を瞑(つむ)っていると、向かいの席が慌ただしい。片目を薄らと開けて見ると、佐々木隆二が慌てた様子でグラスの水を飲み干していた。
「さ、佐々木さん!どうしたんですか!?」
「ふわっ、ちっ!」
「え!?」
「ふおっ!」
「え!?」
「あ、熱かった!」
どうやら、小鳥が佐々木隆二の口に選んだ一片(いっぺん)は、外側は適温だったが、その内側は目を白黒させる程に熱かったらしい。小鳥は思わず声を出して笑ってしまった。
「はぁ、やっと笑った」
「・・・・え?」
「小鳥ちゃん、今日、笑わないから楽しくないのかと思ってた」
佐々木隆二は、緊張して強張った面持ちの小鳥を不安に思っていた。
「や、そんな!楽しくないとか!緊張していただけです!」
「そうかぁ、なら良かった!」
「はい」
「僕も緊張していたんだよ」
「そうなんですか?」
「小鳥ちゃんは女豹とは違うからね」
「女豹」
小鳥は思わず失笑したが、佐々木隆二の眼差しは至って真面目だった。
「俺。本当に、小鳥ちゃんの事が好きなんだ」
「は、はい」
その真剣な面持ちに小鳥も緊張したが、その目は佐々木隆二の口元を注視していた。
「大事にするよ」
「そ、そうですか」
小鳥はテーブルに視線を落とすとおしぼりを取り、佐々木隆二に手渡した。
「・・・?」
「口、着いてます」
「えっ!」
「ここに」
佐々木隆二の口元には黒酢あんが着いていた。「まっ、まじかよ。ダサっ」そして、頬を真っ赤に染め、慌てて口を拭いている。
(可愛い)
小鳥は思わず微笑んでいた。