大水槽の洞窟で、どれ程の時間、指を絡めていたのか分からない。互いの熱が飽和状態で酷く汗ばみ、なんとなくどちらからともなく手を離していた。
「・・・・・・」
「行こっか」
「はい」
暗い洞窟から一歩足を踏み出すと全面ガラス張りの天井から陽の光が降り注ぎ、白い世界に包まれた。小鳥はその明るさに目が眩み、夢の世界から現(うつつ)に戻った、そんな気がした。
「うーん」
「どうしたんですか?」
佐々木隆二は辺りを見回し、その視点はフードコートの看板に注がれた。
「お腹空いたね」
「そう、ですね」
今朝、小鳥は緊張の余り殆ど食事を摂っていなかった。気を抜けば、今にも腹の虫が鳴りそうだ。ところが、食堂も長蛇の列で満席状態だった。軽食のサンドイッチやアメリカンドッグのショーケースにも、”完売しました”のプレートが下がっていた。
「これ、どうしよう。満席だね」
「とても座れませんよね。ランチは諦めましょうか?」
「そうだね。でも、小鳥ちゃん、お腹すごく空いてるでしょう?」
「・・・・え?」
「お腹、鳴ってる」
「ええっ!?」
どうやら、佐々木隆二には、小鳥の腹の虫の音が聞こえていたようだ。佐々木隆二は軽く失笑すると、恥ずかしさで膨れっ面をした小鳥の頭を撫でた。
(あ・・、頭撫でたけど、嫌じゃない)
小鳥は、佐々木隆二に頭を撫でられた事に嫌悪感を抱く事は無かった。寧(むし)ろ心地よささえ感じた。
「えーっと、次のバスは」
「え!?もう帰っちゃうんですか!?」
「小鳥ちゃんがお腹を空かせて倒れたら大変だよ、次のバスで駅まで移動しよう?」
「・・・・そうですか」
小鳥が物足りなさ気にパンフレットを見ていると、佐々木隆二が屈み込み微笑んだ。
「また来れば良いよ、今度はお弁当を持って来よう」
「あ、じゃあ、お弁当、私が作ります!」
「え、良いの!?もう1回ありなの!?」
「・・・・え!あ!」
小鳥は自然にそう答えていた。そもそも、
「そうかぁ。楽しみだなぁ、今度はシャチのショーを見ようよ」
「は、はい」
「ペンギンの行進もあるみたいだよ」
佐々木隆二はパンフレットを片手に、少年の様に目を輝かせた。
(これが”この世界”の決まり事なのかもしれない)
2022年から7年の時を飛び超えた”メビウスの輪”の世界。ここでの小鳥の恋人は佐々木隆二。そして
(そうなったら、・・・受け入れるしか、ないよね)
「小鳥ちゃん?」
「・・・・・・」
「小鳥ちゃんどうしたの?」
「えっ、あっ、ごめんなさい!やっぱりお腹ぺこぺこです!」
「分かった、駅前でなにか食べよう?それまで我慢してね」
「はい!頑張ります!」
「が、頑張りますって、なにそれ」
佐々木隆二は再び失笑し、「次のバスが迎えに来るまで時間があるから」と、水族館の売店で時間を潰す事にした。売店には、ラッコやアザラシのぬいぐるみ、数種類の魚のキーホルダーや、クッキー類の土産物が並んでいた。
「あ、これ可愛いです!」
「なにそれ」
「コツメカワウソです!」
「カワウソ好きなの?」
「海に浮かんでいました!」
小鳥は陳列棚の前で、爪先立ちをして見ていた。
「海にいるの?カワウソが?」
「テレビで見ただけです!でも可愛いです!」
「それ、ラッコじゃないの?」
小鳥はふかふかした手触りのコツメカワウソのぬいぐるみを手に、眉間に皺を寄せた。佐々木隆二はその姿を訝(いぶか)しげに見た。
「なに、なにか悩んでる?」
「はい!焦茶か茶色かグレーか、どれにしようか悩んでいます!」
悩むこと数分。小鳥はグレーのコツメカワウソのぬいぐるみを取り出すと、数体、棚の上に並べて真剣な面持ちで腕組みをした。
「・・・・・」
「小鳥ちゃん、今度はなにを悩んでいるの?」
「顔です!」
「顔ぉ?」
「はい!目の位置とか、鼻の形でみんな顔付きが違うんです!」
小鳥は黒目がちな大きな目を見開いて力説した。
「俺にはどれも同じに見えるけどなぁ」
「ほら!この子なんてぽやっとした顔をしています!」
佐々木隆二は小鳥の顔とグレーのコツメカワウソのぬいぐるみの顔を交互に見比べた。
「本当だ、そのカワウソ、小鳥ちゃんに似てる」
「・・・・!」
「ちょっと間抜けな感じがそっくりだよ?」
「ひ、酷い!」
小鳥がそのコツメカワウソのぬいぐるみの腕を掴んで大きく振りかぶった瞬間、売店の店員が大きく咳払いをした。小鳥は肩をすくませた。
「決まりだね」
「えええええ」
「仕方ないよ、小鳥ちゃんがそのカワウソのぬいぐるみを振り回したんだからね」
「だってそれは!佐々木さんが変な事言うから!」
「良いじゃない、間抜けな顔、可愛いよ」
「ぐっ・・・・!」
佐々木隆二は小鳥の腕からぬいぐるみを引き抜くと、それを抱えてレジスターへと向かった。乱雑に置いたコツメカワウソのぬいぐるみを陳列棚に戻していた小鳥は、慌ててその背中を追った。
「佐々木さん!その子、返して下さい!」
「その子?」
「手に持っているカワウソです!」
「駄目だよ、これは俺からのプレゼントだからね」
「やっ!そんな!お金、自分で払いますから!」
小鳥がショルダーポーチのマグネットに手を掛けると、佐々木隆二はその指先を握った。
「駄目だよ、恋人に恥をかかせちゃ」
「こ、恋人?」
「俺たち、もう恋人繋ぎしたじゃない」
「こ、恋人繋ぎ」
「ほら、大水槽の前で」
絡み合った指先を連想した小鳥の顔は真っ赤に色付いた。
「ね?俺、小鳥ちゃんにぬいぐるみを買うくらい出来るよ?」
「でも、高いし!」
「アルバイトしてるから大丈夫!」
佐々木隆二は、北國経済大学の裏手に住む、中学生の家庭教師をしていた。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
「どう致しまして」
佐々木隆二は、小鳥にグレーのコツメカワウソのぬいぐるみを手渡すと満足げに笑った。ぬいぐるみには赤いリボンが結えられていた。
「やっぱりそっくりだよ」
「そっくりですか?」
「可愛いよ、そのぬいぐるみと一緒に小鳥ちゃんを抱き締めたいくらいなんだけど」
「そっそれは駄目です!」
「プランDは不合格かぁ」
「プラン・・・Dですか」
「残念!」
復路のバスは、PM13:45と時間帯が早かった事も関係し、殆ど貸切状態だった。小鳥と佐々木隆二はハイバックシートの座席に並んで座った。肩と肩が触れ合い、佐々木隆二のハーバルグリーンの柔軟剤の香りが小鳥を包み込んだ。
「佐々木さん」
「なに?」
「ぬいぐるみ、ありがとうございました」
小鳥の膝の上には、ぽやっとした表情のコツメカワウソのぬいぐるみが座り、その照れ臭さを隠すように両腕をパタパタと動かして見せた。佐々木隆二は、「プランE、良いかな」と微笑んで、小鳥の頬へ唇を軽く押し当てた。
「・・・・」
小鳥は恥ずかしさの余り、コツメカワウソのぬいぐるみで顔を隠した。グレーのぬいぐるみはぎゅうっと潰れて「ふにゃっ」と鳴いた。