水族館の車寄せに停車した送迎バスの中では、「バスから降りるのが嫌だ」と泣き叫ぶ小さな子ども連れの母親が、ベビーカーを片手に四苦八苦していた。その背後(うしろ)では「早くバスから降りたい」と急かすもう一組の家族、母親の頬は恥ずかしさと焦りで紅潮し、額に汗をかいていた。
「・・・あ」
そこで、小鳥の隣で吊り革に掴まっていた佐々木隆二が母親に向かって歩みを進めると、一言、二言、言葉を交わし、次に紺色のベビーカーを軽々と持ち上げた。小鳥が呆然とその様子を見ていると、佐々木隆二がその名前を呼んだ。
「小鳥ちゃん、行くよ」
「あ、はい」
「ちょっとすみません、通ります」
佐々木隆二と小鳥は乗客の合間をぬって降り口を目指した。乗車料金を支払い混雑したバスから解放された小鳥は、大きく息を吸って深く吐いた。潮の香りがした。
「ごめんなさい」
小鳥の後を追うように、汗だくの母親は、泣き叫ぶ我が子を抱き上げて、「ごめんなさい、すみません」とバスのステップを降りて来た。
「ありがとうございました」
深々と頭を下げる母親に、佐々木隆二は照れ臭そうに襟足を掻いた。
「そんな、お礼なんて」
「はい、本当に助かりました」
小鳥が背後を振り返ると、先程まで駄々を捏(こ)ねて号泣していた姿はどこへやら。青いショルダーバッグを肩に斜めに掛けた男の子は、ラッピングバスのラッコのイラストを叩いて大喜びをしていた。
(・・・子どもって、切り替えが早い)
小鳥と佐々木隆二は、「ありがとうございます、ありがとうございます」とお辞儀をする母親に見送られて水族館の入場口を目指した。
「佐々木さん、凄いですね」
「なにが?」
「周りの人は知らん顔だったのに、あんな風に声を掛けられるなんて凄いです」
「俺の姉ちゃん
「でも普通は恥ずかしくて出来ません」
「なに、またまた俺に惚れちゃった感じ?」
「そ、そんなんじゃありません!」
小鳥はそう言って顔を赤らめ否定したものの、コンクリートの階段を先に上る佐々木隆二の背中を頼もしく、そして眩しく見た。
(あ、あれ?なんだこれ?)
脈拍が乱れるのはなぜだろう?小鳥の心臓は、階段を一歩一歩上る毎(ごと)に跳ね、鼓動が急に騒がしくなった。
(なに、なに、なに?)
そんな不可思議な感情を持て余しながら、階段を上り切ったところで小鳥はうんざりした。
「あぁ、また行列ですね」
パンジーの花が咲き乱れる噴水広場。その広場の奥に、入場券売り場が見えた。四つの入場券売り場は長蛇の列で、看板を掲げたスタッフが拡声器で「最後尾はこちらです」と声を大にしていた。
「うわぁ、凄い」
「そうだね。凄い行列だね」
そこで小鳥は、思い付いた様に佐々木隆二の顔を覗き込んだ。
「佐々木さん。入場券、私の分は自分で払います」
「小鳥ちゃん、こっち」
「えっ、えっ!?」
小鳥がショルダーポーチから財布を取り出そうとマグネットに手を掛けたところで腕を引っ張られた。向かった先には携帯電話に表示されたQRコードを読み込む機械があり、小鳥は順番を待つ事も無く水族館館内に入場する事が出来た。
「えっ、これって」
「自動チェックイン、便利でしょ?」
「それは分かりますが、なんで!?」
「事前精算したから」
「事前って!」
小鳥は、佐々木隆二とQRコード読み込み機を交互に見た。
「なに、そんな顔して」
「だ、だって!私が来なかったらどうするつもりだったんですか!?お金が無駄になっちゃうかもしれないのに!」
佐々木隆二は、小鳥がなにを言っているのか理解出来ないという顔をした。
「来るよ」
「え」
「小鳥ちゃんは、来ると思ってた」
「佐々木さん」
「小鳥ちゃんは俺との約束を守る。そう信じてた」
「信じてた」
「そう」
そこで入場券を購入した人の波がエントランスに傾れ込んで来た。子どもたちが所狭しと駆け回り、その場は一気に賑やかになった。小鳥と佐々木隆二の見つめ合う時間はそこで途切れた。
「はい、小鳥ちゃん」
少し恥ずかしげな面差しの佐々木隆二が、大きな手のひらを小鳥へと差し出した。
「ほら、早く行かないと!ゆっくり見れないよ!」
「あ、はい」
「ほら」
佐々木隆二が小鳥の手を取り優しく握った。
(あったかい)
小鳥は、指先から伝わる温かさに戸惑いながらも、その横顔を見つめそっと握り返した。するとその仕草に気付いた佐々木隆二は微笑み、繋いだ手に少しばかり力を込めた。
「なにから見ようか?」
「じゃあ、鯵(あじ)の南蛮漬けから」
「鯵(あじ)はいないけど、鰯(いわし)ならいるよ?」
「え!?そんな食べられる魚がいるんですか!?」
展示物の看板を見上げた佐々木隆二が小鳥の腕を軽く引いた。
「真鰯(まいわし)に、エイが泳ぐ大水槽があるんだって。行ってみよう」
「はい!」
暗い洞窟を模したトンネルを恐る恐る進むと、そこは深い海の底だった。大水槽には屋根が無く、太陽光がそのまま降り注いでいた。太陽が雲に隠れると海水の色合いは濃くなり、顔を出せば光が乱反射し底砂は白く輝いた。
「うわっ、変な顔!」
見上げた海中には、ホシエイが胸鰭(むなびれ)を揺らめかせながらふわふわと移動していた。その雄大さに惚(ほう)けた小鳥の目の前では、大小の魚が自由に泳ぎ周り、岩場からは手脚の長い蟹が顔を出していた。
「見てみて、小鳥ちゃん」
「なんですか?」
佐々木隆二が、降り注ぐ太陽光を頼りにパンフレットへと目を落とした。パンフレットには、大水槽のサイズや泳いでいる魚の種類が記載されていた。
「この大水槽、幅14m、水深7.5mだって」
「凄い!そんなに大きいんですか!」
小鳥は湾曲したアクリルガラスの水槽に頬を付けて海水の冷たさを楽しんだ。仰ぎ見る水面に、銀色に輝く25,000匹の真鰯(まいわし)の魚群、小鳥の目は輝き、その姿を見つめる佐々木隆二の目は優しかった。
「わぁ!凄い!綺麗!」
「これは・・・本当に凄いね」
それは1日3回行われるショーだった。海底からきめ細やかな泡がまるでカーテンの様に吹き出し、それに合わせて真鰯(まいわし)の群れは向きを変え、形を変えて大水槽の中を泳ぎ、それは銀色に煌(きら)めいた。小鳥と佐々木隆二は全体が見渡せる壁に寄り掛かり、その生命の美しさを堪能した。
「食べられるお魚がこんなに綺麗だなんて知りませんでした」
「50種類も泳いでいるんだから、小鳥ちゃんの好きな南蛮漬けが居るかもしれないよ」
「もう!それは言わないでください!」
「ふふっ」
「もう!」
「・・・・」
小鳥が佐々木隆二の肩を叩こうと拳骨(げんこつ)を振り上げたその時、華奢な手首は最(いと)も簡単に抑えられ動きを止めた。そして、沈黙が2人を包んだ。
「・・・・」
大水槽の洞窟は黒絵具で塗り潰され、小さな海のセルリアンブルーとホリゾンブルーは、魚群を鑑賞する人々の黒い影を際立たせた。
「・・・・」
2人は無言で見つめ合い、まるで磁石のN極とS極が吸い寄せられる様に手のひらを重ねていた。指先が絡み合う、互いの温もりを感じるには十分だった。